自分にとっての当たり前を作っていくこと

今日は久しぶりに道場で一人稽古。八月はいろいろあってあまり稽古が出来ていなかった。やはり、当たり前に感じていた感覚が変わっている部分もある。体調は全快していたと思っていたが、心肺機能がまだ完全では無かった。そのため、一人稽古ではめずらしく鍛錬稽古を五種類位、時間にすればものの五分程度だが、息が上がり治まるまでゆっくり動いたり止まっていても十五分は呼吸が元に戻らなかった。杖と木刀の感覚がイマイチであったが、抜刀に関してはさほど影響は受けていなかった。だがしかし、何かを得ていく状況にはなっていないため、今は一人稽古を重ねていくしかない。今年の八月は、いろいろと難があった。

淡々とやれている日常は、当たり前のように思えるがそれは錯覚なのかもしれない。
淡々とやれていることに感謝し、その淡々とやれる内容を少しずつ積み上げて行かなければならない。
自分自身をマネージメントするということ。それは金銭的なことではなく、生き方と生きていくための自然発生的な糧のために筋を通すということ。

いろいろなバランスが大事ではあるが、そのバランスの一部に偏ってしまわないよう影響を受けすぎないよう、本来の自分である時間を確保しておくことが重要であり、私の場合それは一人稽古となるのだろう。

さて、明日は久しぶりに戸越体育館で剣術クラスの講習をおこないます。私もまだまだ運動感覚不足なので、動きに動きたいと思っています。12時30分から始まります。


9月9日(土)『杖術 特別講習会』のお知らせ

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2023-08-25(Fri)
 

刀に縁のある一日

 寒暖の差が続く日々であるが、今日の日中は暖かく気持ちよさそうだ。2/23(木/天皇誕生日)に開催する『抜刀術 特別講習会』のお申し込みが、近年にしては珍しく多い。懇親会も同じで年齢層も幅広く楽しみにしている。

 昨日は、抜刀術の一人稽古をおこなった。立構(たちがまえ)から抜くのは、2019年までおこなっていたそれぞれに応じた構えから抜くよりも難しい。

 2020年から立構に移行して今年で4年目。初動をゆっくりとしたり少し速度を上げてみたり工夫をしてきたが、そこは発力によって考える必要が無くなった。立構により、発力は2019年までのものではなくなった。

 しかし、物理的に構えている状態に比べて動きが増えてしまうので、そこの改善を一つ一つ技に応じて研究してきた。長年身に付いたもの、染み付いていたものを変えるというのは困難ではあるが、新たな感覚がこれまでの馴染みを変えていく。何かを取り入れ、それを身体が良しと実感すれば前に進めるのだ。

 この日の稽古では、立構での姿勢についても、動く前にどのように整えておけるか、つまり整うということは準備が出来た状態、または隙が無い状態にある。それは、力んだり意気込んだりするものではなく、余計な事を省いた状態でありながらそれが崩れにくい状態であること。それは体術稽古で検証しているが、実感無き実感を得ていくためにも、微妙な姿勢や目線、顔の具合というものは疎かにしてはならない。

 技では、「津波返し」の手順に進展があった。これまでは、鞘の操作に導かれるように沈んで行ったが、沈み始めてから鞘の操作に移行することとした。これにより発力が行ないやすく、動きの一致が得られやすい。あとは無意識的な計算に任せるが、これまでの違和感が少し解消されたことは大きい。

 「隅返し」では、後ろ重心を大きくしすぎないことで、刀と身体の位置が丁度良くなった。このように文字に書いても、実際に直接観て動かなければ解らないものである。説明がなければ観ても解らないものであるが…それだけ微かなことの組み合わせにより技の実感が得られる。

 一人稽古終了後、夜からは松聲館に行き甲野善紀先生と稽古。

 私にとって得たものというか今後の道標として学んだものは、両手の配分が身体を踏ん張らせないように浮きへと流れていくのではないかということ。それはもしかしたら肩が止めているのかもしれないし、居着くことの要因として両手の力というのは、自らの力をそこで受け止め、全身を使い切れていないのではないかということ。体術では当然と言えば当然のことであるが、剣に関してはまだまだ未踏の地である。そして、剣術をやっているからこそ解る手の形の違い。その僅かなことが大きな働きとなり、剣術と体術を結びつけていく。これらのことは、年月を掛けて探究していかなければならないが、その遙か先の道に落ちてあるものが分かっただけでも十分な価値である。

 この夜は、これまでに無く不思議な時間を過ごさせていただきました。それは稽古というよりは、そこに居られたことが何か意味のあるものだったような気がしました。ただそこに居ただけのことですが、記憶に残る空間でした。帰宅後は真剣、豊後住藤原豊行をいつもとは異なる場所へ移動いたしました。


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2023-02-18(Sat)
 

松聲館での得難い実感

 昨日は都内某所で剣術の個人指導。身体の使い方や不思議さをお伝えするために体術なども交える。あらためて、身体を通じた交流というか、その時間の共有というのは得難いものであり、感動的である。

 帰宅後、恵方巻きを慌ただしく頬張ったのち、松聲館へ伺い甲野善紀先生と稽古。予定よりも早く着いたためか、先生がまだ書斎の前に座られていて、その横顔にライトが当たっている風景が、2010年9月14日に初めて松聲館を訪れたあのときと同じでした。

 この日は夜遅くからということもあり、いつもに比べて時間は短かったのですが、それでも十分過ぎるほどの得難い実感がありました。

 剣の持ち方により、左右が使い分けられるということ。斬るということ。

 特に驚いたのは、最後の最後にもう一度受けさせていただいた剣術「斬割」。

 私が打太刀となり、真っ向に斬り込んだ際に、先生が使われているように左右どちらかの手を主体に働かせたところ、仕太刀となる先生の斬りに袋竹刀が噛むような粘りがあり、この実感に大変驚きました。と、同時にこれからの素振りがどうなっていくのか不安も訪れました。しかし、素振りとは別に行なう必要があるのか、はたまた素振りも同じようにおこなうべきなのか、それは今後の稽古で実感を信じて試みて行こうと思います。まずは、相手の斬り込みに対する中心の取り方。その実感と把握から導かれていくのだろうと思います。木刀では直ぐに折れる可能性があるため、やり方を工夫するか、袋竹刀を使うことになるかもしれません。とにかく、あの瞬間の粘りというのは、想像出来ないものでした。精進致します。


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2023-02-04(Sat)
 

ひさしぶりの松聲館での稽古

 一昨日の夜はひさしぶりに、松聲館へ伺い甲野善紀先生と稽古させていただきました。それまでの間、先生から電話で剣を振る際の右手と左手の使い方に大きな気づきがあったと伺っておりましたので、一体どのようなものなのか気になっておりました。

 私自身、剣を振る際の左右の兼ね合いについてこれまでに考えながら稽古しておりましたが、じっさいに先生の剣を受けてみて、そもそもの意識が、剣を両手で振るものであるという認識が、ある部分で弊害になっていることが分りました。もちろん両手で持つこと、振る必要はあるのですが、その意味合いが言葉通りに「両手で振る」と解釈してしまいますと、速さ、反応、気配、そのいずれにおいても遅れをとってしまいます。

 そのことは、体術や、薙刀などでも同様でしたが、私が最も驚いたのは、先生の差し出す手の甲に指先を触れていて、先生が私の手首を掴みに来るのを私が避けられるかという、反射反応を試す稽古の際に、全く避けることが出来ずに何度も手首を掴まれてしまったことです。

 この稽古はこれまでにも何度か行なっていただいたことはありますし、私自身も稽古会で会員の方々にやったことはあります。しかしながら、この日の先生の動きは、割とゆっくりに見えて、それでいて避けることが出来ないのです。つまり、私の指先から先生の手の甲が離れて、手首辺りを掴みに来る間の反射反応が全く起きなかったのです。

 相手の反射反応を引き出すのは、気配などを感知して動かされてしまうのですが、それを止めたまま動くことが出来るのかと、そこに左右の使い方が関係していると先生は仰っておりました。

 もちろん、内観としての身体の精妙な連なりなどが把握出来ていなければ、その連なりを分けることは出来ないでしょう。身体の左右というものが、何かしらの動きに対してどのように無意識的に連なっているのか、そこに、思い違いというか、余計な手掛かりを当たり前のようにやっていたことがあるように感じます。

 このことは、直ぐに出来るものではありませんが、そのことを体感し、相手の反射反応に関わる、余計な動きの連なりを断ち切ることが出来るかが、大きな課題となったのです。気配のことは、もっと違うように意識しておりましたが、左右の余計な連携や状態というのは、人間にとって当たり前の仕組みとなっており、それが瞬間的に相手にも通じているのだと考えます。互いに助け合うつもりが、気配や、その他の面でも足を引っ張っていたのだと、武術というものは、人間というものは、じつに不思議なものであるとあらためて考えさせられました。

 信じていたことの失敗は、その段階において致し方が無いものでありますが、人生の道中、その信じていたものというのは、安易なものであったと気づかなければならない日が訪れます。それが人にとっての成長でありましょうし、深みということになっていくのでしょう。それだけに、ショックな事なのですが、前に進むためには、事実を知る、受け入れるということが、迷い無く生きていくための鍵になっているのだと思います。身体から学ぶことは、大きなものなのです。


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2022-12-25(Sun)
 

久し振りに松聲館へ

 昨夜は久し振りに松聲館に行き甲野先生と稽古いたしました。今年の2月以来なので、これまでの中で最も間が空いたのですが、道場に上がると月日の経過を感じない、いつもの感じがいたしました。しかし月日の経過を感じたのは、先生から伝えられるこれまでの展開の流れ、これまでの4年位は心法による気づきが主でしたが、昨夜は久し振りに身体の使い方の重要な発見といいましょうか、それを幾つか見せていただきました。

 円の使い方、支点の使い方、それらは安易なるものではなく、先回りされない、つまり相手をセンサーモードにさせておくことで、体格差があっても技が利くということになるのです。技が利かないというのは、相手に準備された状態で待ち構えられてしまうと、結局は動き出しの速さや力の強さに頼らなくてはなりません。ですから、技を技として使うためには、相手に準備されない身体の使い方が求められます。その円の使い方や、支点の使い方というのは、受けている相手の対応力が上がってきたら(経験的に、先回りが立つようになる)それらの質を変えていかなくてはなりません。昨夜の先生の技を受けて、私なりにこれからどのような気づきを得ていくのか現時点では解りませんが、今後自身の稽古において、身体が何らかのアドバイスをしてくれるものになったことは間違いないと思います。

 武術稽古、私にとってそれは生きていく中での道標そのものでありますが、そこには人間という生物のなかにある様々な生き物であったり、そうしたものの働き・作用も関係しているのかもしれません。それは心と大いに関係しており、他者との関わりや他の生物との関わりにも実は関係しているのかもしれません。
 
 剣術では、素振りと斬り結びは、根本的に身体使いが違うのだと、当然分かっていたつもりでしたが、改めてその辺りを考えさせられました。もちろん、最初から斬り結ぶつもりの身体使いでもなく、瞬時に中心をどのようにとるか…今後の課題といたします。

 昨夜は濃密な稽古に心身が震えるほどでした。終電近い電車を乗り継いで帰宅する道すがらの心地よさも懐かしい。どんな時間も同じように流れて行きますが、どんな時間も掛け替えのない時間なのでしょうね。生きているということは。


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2022-09-03(Sat)
 
プロフィール

金山孝之


     金山 孝之
  Takayuki Kanayama


1975年生まれ
福岡県北九州市門司区出身
東京都世田谷区在住

松聲館技法研究員

金山剣術稽古会主宰

Gold Castle
殺陣&剣術スクール主宰

高齢者のための剣術教室
クラーチ剣術教室講師

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