真夏の稽古法

 早いもので7月も最後の一日となったが、この時期の稽古は尋常じゃなく汗をかいてしまう。稽古の目的にもよるが、あまり長時間の稽古は感覚を養成するための集中力が雑になってしまう。そうなってくると逆効果となってしまうため、私自身の稽古内容をしばらく絞ったものにする必要があると感じた。

 今月はある企画の予定を立てていたのだがスケジュールの都合上延期することとした。それまでジックリと、現在出来るまでの動きを詰めて精度を上げておきたい。そのために抜刀術の集中稽古に取り組もうと思っている。

 「静」の部分におけるムダを省きながらも、居着かない身体の運び方。カラダを使うというよりは(使っているのだが)アタマを使うというのか考えることが多く、しかし実際に考えてしまうとダメであり、微妙な部分で神経が磨り減ってくる感がある。だが、夏場の限られた時間での稽古にはうってつけのように思う。私の性格上、つい杖から、抜刀術から、剣術からと一通りやってしまいたくなるのだが、(二年前に激しく木刀を振りすぎて意識が飛んで瞬間的に仰向けに倒れてしまったことがある。現在はその身体を練るという意味においてより効率のよい真逆といえる剣の振りとなった。)そこを敢えてガマンし、抜刀術の中で試す事柄などを広げることが出来ればと思う。これはもしかすると、パターン化しないようにさまざまな得物で稽古に取り組んでいたのだが、刺激にカラダが慣れてきたかのように、ある種のパターン化となってきているのかもしれない。そんな意味も含めて、この夏は今までと違った「なにか」を模索できるような稽古になればと願う。

   
2013-07-31(Wed)
 

2013年8月 武術稽古日程              (剣術・抜刀術・杖術・体術)

稽古見学、または参加希望の方はこちらのブログの【お問い合わせ】よりご連絡下さい。

8月2日(金) 16:30~ 高田馬場 


8月5日(月) 16:30~ 高田馬場


8月9日(金) 16:30~ 高田馬場


8月12日(月) 16:30~ 高田馬場


8月14日(水) 16:30~ 高田馬場


8月16日(金) 16:30~ 高田馬場


8月19日(月) 16:30~ 高田馬場


8月23日(金) 16:30~ 高田馬場


8月30日(金) 16:30~ 高田馬場


※稽古時間は都合の良い時間帯内(16:30~21:00の間)で構いません。もちろん最初から最後まででも結構です。前日までには希望日時をメールまたは、お問い合わせフォームよりお知らせください。

※稽古場所の詳細や稽古内容、稽古時間のご相談、稽古費用や道具類その他のご質問等につきましてはメールまたは、お問い合わせフォームよりお受けいたします。

※都合により日程が変更となる場合がありますので御了承下さい。


2013-07-29(Mon)
 

大きな二日間

 昨日は宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』を観に行ってきた。予想していたとおり泣けてしまった。この映画は観る人の心が試されるような美しい映画だった。一途な想いと一日一日を大切に生きる主人公「二郎」の姿に心打たれてしまった。

 今日は朝からほとんど何も食べてなく、稽古前に自宅でバタバタと時間なく準備をし、出掛ける寸前に冷凍してあった寿司一貫分ぐらいの小さいおにぎりのようなものを解凍して口に入れただけで、今日はどうしても早く稽古場に行きたくてしょうがなかったので、食事もその程度で家を飛び出した。

 自身の都合により、二週間ぶりの道場での稽古となったが、私の気持ちよりも身体のほうが早く早くと急かしているようで、身体が「動きたい!浮きたい!纏まりたい!」と訴えかけていて落ち着かない。電車に乗っても落ち着かず、「いや、あえて今日はジラすように抑えて抑えてやるほうが効果的かもしれない」と、身体からの訴えを待つようにやろうと考えた。しかし、道場へ向かう足取りは最速を心掛けている。

 蝉が鳴くようになってきた。ミンミンゼミだろうか、まだちらほらだが、このところ暑さも一時期に比べれば落ち着いているため、余裕をもって鳴き声を聞くことができる。

 まずは杖から始めた。親指と人差指が他の指と連動して作用してしまうと、肘が外に広がり、肩が上がるような感覚があったため、今日はこの二本の指をなるべく使わないようにおこなってみた。普段からこの二本の指による肩の上がり(詰まり)という問題を意識していることと、今回道場での広い空間で久しぶりに自由に動けることで、今まで指はなるべく連動して全て使うものとして意識していたものが無意識のうちに固定観念化していたことに気が付けたのだと思う。もちろん、すべてがすべて悪い影響があるわけではないのだが、使いかたによっては肘から肩にかけて詰まりの連鎖がおこってしまう。

 次に抜刀術では、このところ取り組んでいる十一手の抜刀をメインにおこなっている。ソ之字がハ之字になり、完全に感覚と実感はこちらのほうに全ての技が組み変わった。身体を纏めたまま移動するには、外に広がる身体の使いかたでは、バラバラになりすぎて回収に時間がかかり、つまり纏まっているもの(整っているもの)を一旦バラバラに崩し再び纏める(整える)には時間がかかるのである。ちなみに現在の唯一配信している抜刀術の動画は昨年の12月28日に撮ったものでまだソ之字からの操法である。12月27日に撮ることを決め慌てて当日一気撮りしたものである。しかし、ありがたいことに私が以前読んだ漫画の作者の方と思われる方から励みになるコメントをいただいた。

 納刀では思いがけない修正点が見つかった。
 現在はずっと、甲野先生がおこなっている峰を回転させる納刀(名前が判らないので「峰返し納刀」と書くが)で納刀している。これは、最初になんで出来なかったのか判らないほど、扱いやすく特に片膝をついた低い姿勢では有効である。さて問題は、切っ先が鯉口に入り、鞘から迎えに行き納め、最後に柄頭を持ち鎺(ハバキ)まで完全に納める際に、「なぜ、最後に柄頭を持ち納めるのか?」という疑問があったのだ。これはさまざまにその流派の思想や個人の考えでおこなわれていると思うが、そのまま柄を握ったまま納める流派も多い。私自身は、始めに学んだ納め方がこの柄頭をもっての納め方であり、そういうものなんだと思っていたため気にもしなかったのだが、独立してフト、どうしてスキを作らないように鞘から迎えにゆくのに、柄に掛けた手を柄頭に持ってゆくのかという疑問に引っ掛かり、それ以来、柄頭を持たず柄を握ったまま納めることにしていた。(私の抜刀術の動画ではまだ、柄頭を持って納めていた頃である)

 腹(下丹田)の意識に熱中していた頃、この柄頭を持って納めたときに「そうか、腹にくる感じがあるのか!」と思ったことで、再び柄頭を持って納める納刀法に変わった。今日の久しぶりの道場稽古で感じた私の未熟ながらの勝手な解釈として、「身体の中心(下丹田)から発したものを、最後に再び中心へと戻す」という意味合いでおこなうことにした。そのため、ただ握ってエイッと押し込むのではなく、手ノ内から、肘、肩が上がらないようにおこなう必要があり、纏まっているもののさらに中心の点に突き刺すような実感が得られれば理想であるのかもしれないが、身体の他の部分も含めまだまだ御座なりになっている部分は多いと思う。

 右斜め後方からの真っ向斬り、もしくは袈裟斬りに対する抜刀に進展があった。名前はまだ決まってないが、これはハ之字立ちがもっとも効果的に表れた抜刀であり、感覚が慣れるまでは怖い技である。

 ハ之字立ちになることで、尻餅をつく重心移動のキッカケに、前側の脚が置いてきぼりにならず後方への回転に連動し、かつ、膝を着きながら前方へ脚を運ばせることが自然と出来る。さらに、ハ之字立ちは歩幅を狭くとれるため、居着きにくく動き出しに対する不安定さを作り易い。ひとつ「巴抜き」についての最近の操法手順の一部を書いてみると、『巴抜きは、足の親指の緊張(全ての抜刀もそうだが)と、右7、左3の加重バランスを保ちながらも、重心が左右に傾かず前重心に置くこと。斬り上げからの手首の返しが連動し丁度良いところで手首が返ることで斬り下げに纏まりに伴う速さが発生する。ただ、斬り下ろしの際に剣と体が離れすぎてしまうとズレが生じてしまい気持ちの悪いものとなってしまう。』ほんの一部の注意項目に過ぎないが、実感から積み重ね、染み込んでいる部分や、変更する必要がある部分など、おそらく私自身にしか判らないデータがかなり蓄積されてきたと思う。

 三時間半の稽古を終え、自宅に帰り少し運動をし、風呂に入りパソコンの電源を切ったように、ただの肉の塊となることおよそ二分間、自然と呼吸がゆっくり深くなってきたので、息を止めたりしながら気持ちいいところまで吸って気持ちいいところまで吐く、こうなってくると効果的なのが耳の周りをそれぞれ五本の指で囲い指先で軽く押し込み、そのまま押しながら頭頂部まで引き上げる。そこでしばらく押さえたのち、手のひらの付け根あたりで耳の上部にある頭皮を引き上げる。これを何度か繰り返すと、体中の緊張が抜け、「あーーー」と呼吸とともに呻き声が出てくる。目が開いているのか閉じているのか脱力し首が垂れ、湯船の中再びパソコンの電源を落としたかのように肉の塊になる。二分ぐらいして終了。これでようやくスイッチが切り替わった。

 風呂から上がり、今日まともに食事をしたのが深夜0時前であった。しかし、空腹感や、それにともなう疲労感はまったく感じなかった。ただ、また体重が落ちてしまったのが残念である。その後、道着など、手洗いのものはその日のうちにおこなわなくては嫌なので、なにかと忙しい。だが、こんな、面倒くさいことや、時間が掛かることも、昨日観た映画の主人公の青年「二郎」の夢に向かう一途さと心の美しさを観たあとでは、このような、億劫に感じていたことも、大切な時間に感じられた。今後もこのような気持ちでありたいし、自分がこの先どうなるのか何も決まっていないが、今夢中になっているものを、私も追い続けていきたい。


2013-07-27(Sat)
 

意識と無意識の状態

 日常生活において、自分の身に降りかかる咄嗟の状況に遭遇した場合、身体と心がどのように反応するか問われるものであると思うが、意識する時間もないほどに瞬間的な対応を迫られることもあるだろう。それは、その状況の緊張度により、よりアソビの抜けた対応になるように思う。(アソビの抜けたとは、肉体的にも精神的にも遠慮の無い備わっている自然な自分の姿)限りなく無意識に近い状態でもスッとその急変した空間に溶け込めるか、いや、無意識に近いからこそ躊躇なく感情に邪魔されず身体から動き出すのかもしれない。

 いま書きながら思ったことだが、「意識して想定して感情をコントロールして・・・」このような準備が、自分を脆くしてしまいかねない。これはむずかしい感覚的な表現だが、「準備して準備しないようにする」のか「準備しないで準備する」のかどちらとも言えないが、なにかに頼ることは、そこに支点を作ってしまい、見えやすく脆さが生まれるのではないだろうか。身体的な考えから、意識における支点という、準備や段取りが要因としてありうるのではないかと思ったのである。だとすれば、なにも考えないのはあまりにも高次元なレベルだと思うので、まったく関係ないと思えるようなことも含め全体に思考を散らすことが、頼らない、支点を消すための、準備の意識をもたない準備になるのかもしれない。まぁ、そう思えば役者の演技論に似たような気もするが・・・・・・

 話は変わって、よくウトウトし始めた時に、階段から足を踏み外したようなガクっとした経験はないだろうか?私の場合それもあるのだが、ボクシングをやっていた高校時代は、オーソドックススタイルであったため、ウトウトし始めた時によく左ジャブが出ていた。それを思い出したのは、先日横になっていた時に、右側を下に寝かけていたのだが、顔の前においてあった右腕が、剣を振るようにビュッと降りたのである。初めての経験だったので驚いたが、これから増えそうだと思った。

 また、あまりにも生々しい夢だったので記録しておいたのだが、7月9日に見た夢の中で刀を使ったのである。止むに止まれぬ状況のなか、具体的には書かないが、躊躇なく迷いがなかったことと、間合いの難しさと(やはりこうなるかと感じたこと)などさまざまにリアリティーがあった。稽古の夢はしばしば見るのだが、実戦は初めてであった。おそらくこのところ抜刀術稽古に時間をかけているからであろう。しかし、身体の反応や、夢の内容にまで変化が起こるほど、抜刀術の稽古はなにか、身体と心に与える影響力がずっと強いのかもしれない。


2013-07-25(Thu)
 

骨格と筋肉の主体性の違い

 骨格の構造と可動域と全体的な感覚と筋肉の関係性というものを、自身のカラダを見つめたときに、追い求めるものと、それに伴う間違ったカラダの使いかたによる修練から、日常生活における痛みであったり、可動域の詰まりによる疲労、それらの影響による感覚の鈍化が、骨格構造と感覚、骨格構造と筋肉の関係性という、単純明快な結論に行き着いた。それは、ほんのチョットの認識不足によるもので、大筋は今までと大して変わらぬことであるが、追い求めるものに対するイメージは以前よりは、カラダの使いかたと、それによる進展という意味において明解になったと思う。

 経験や失敗などから漠然と感じ取ったものであるが、限定的な部分における強力な筋肉による働きの実感があるということは、カラダの構造にどこか途切れている部分があり、それは位置を修正できるものなのか、今までの身体の使いかたからなる筋肉のつきかたなどにより、構造を整えるのに時間ががかるものなのかさまざまだが、筋肉の働きの実感が強いということは、構造を使えてなく、この動きを続けるかぎり肉体は、構造づくりとそこに繋がってくる感覚をいつまで経っても解らぬまま、身体にかかる負担と痛みに絶えながら、感覚を研ぎ澄ませない、MOREパワーへの方向性に行かざるを得ない。

 骨格構造と可動域を自在に扱えるように、また全身を纏めロックをかけた状態も、構造と可動域が使えるからこそ出来る操法であると思う。そういう意味では、やはり杖や刀を扱った稽古は全身の調和をとりながらおこなうため、構造と可動域が自然と練られ、限定的な部分における強力な筋肉の働きは、全身の調和がとれていれば極めて起こりえないと思っている。

 今後とも私自身、構造から感覚を養い、その操法を練ることで、細かく割れた身体になれるように精進していかなければならない。


2013-07-22(Mon)
 

個展を観に

 昨日は原宿駅竹下口から徒歩4分のところにある「KSギャラリー原宿」にて、増田佳子氏による抽象画の個展を観に行ってきた。

 このブログにリンクさせてもらっているが、以前に2回絵画教室でのモデルをさせていただいたことからご縁が繋がっている。私としても、さいきんは美術館など全く行っていなかったので、今回の個展を観に行くのがとても楽しみであった。

 絵画に関して心得の無い私なのだが、この抽象画にはすっかり魅入ってしまった。人により捉え方がさまざまに違うことや、距離により絵の雰囲気や見えかたが変わってくる。また、外の明るさなども影響してくるし、その人の感情や気分によっても見えかた映りかたは変わってくると思う。

 非常に興味深かったのは、「絵の完成とはどこで決まるのか」つまりどこで止められるのかという質問をしたところ、やはりその部分は重要なようで、昔は「足りないまま終えてしまうより、やり過ぎてしまうぐらいのほうが、問題点に気づき次に繋がってゆく」と教えられたそうである。たしかに、失敗を恐れてそれまでの苦労を台無しにしないように当たり障りないところでおさめておくことは、なにごとにしても人は選びやすいだろう。だが、成長するため、その先を見るためには、あるラインを超えていかなければ見えてこない形や結果がある。私が気になったのは、武術稽古における「止め時」道場を後にする「帰り時」というものが、日ごろ意識しているものなので、この抽象画の作品を観た時に、「完成のタイミング」というものに非常に興味深いものがあった。

 「料理で例えるなら、調味量が足りなくても多すぎても美味しくないでしょ、絵画にしても丁度いいところが判るようになってくるんです。」と増田氏に教えていただき、なるほど!と納得がいったのである。また、作品によっては、早いもので2週間で完成するものがあれば、手が付かず2ヶ月以上も掛かってしまうこともあるという。

 集中力や、感覚が、一つの作品のテーマ毎に重要でそのエネルギーは凄いものだと想像がつく。それは、自身の武術稽古において、その二つが欠けてしまうと、稽古にならなくなってしまうからである。すなわち、集中力と感覚から生まれるものが、武術稽古では、ひとつの有効な技であったり、纏まった動きの発見になるのかもしれない。そう感ずれば、この抽象画における全ての色、技法、構図などは、集中力と感覚の結晶である。全てが自由であるからこそ、その一点にまで作者の作品に対する想いとエネルギーが込められているのだと、今までの絵画に対する観方が改められた。

 集中力と感覚から生み出され、他の分野でも活かせる思考と判断力と技術。アートな世界での方々や、職人の方々、その他の分野でも、研ぎ澄まされその人自身が人間としても成長してゆける。武術稽古においても、このような想いで取り組むことに意味があると思う。


2013-07-16(Tue)
 

抜刀術集中稽古

 気がつけば深夜の1:00を過ぎている。一日のすべてが終わりようやく一段落するとなるとだいたいこのくらいの時間になってしまう。

 しかし、梅雨明けしたかと思えば猛暑日になり、体がまだ本格的な暑さに適応する準備が出来ていないように思う。昨日は連日の疲労が重なったのか、めまいのような疲労感に襲われ午後から翌朝まで動くことが出来なかった。そのため安静に休息をとった。
 
 十分に休息を得たので、今日は体力気力とも充実した稽古ができた。3時間半の稽古のうち、抜刀術に2時間半を費やした。汗が引っ切り無しにこぼれ落ちる中での抜刀術十一手を連続しておこなう中で、今までにない繋がっている集中力が必要になってくる。しかし、杖の稽古がそのように変わったように、抜刀術においても、途切れずに繋がっている集中を要する連続した稽古が現在の私には新鮮であり、身に入ってくる。

 武術稽古の中でも「抜刀術」は私にとって特別なものであり、もっとも興味深くもっとも追求したいと言える稽古である。その理由を考えると困ってしまうが、「刀」という日本の歴史にとって切っても切り離せないものを用い、(居合い刀ではあるが)肉体的にも精神的にも凝縮された身体のつかいかたで正か否かを問いかけている部分に強く惹かれるものがあるからなのかも知れない。

 現在の抜刀術ではソ之字に構える足の使い方はほとんど消滅してきている。平行に真っ直ぐか、やや内側にハ之字に近い感じである。抜く瞬間にどのような脚足の使い方になっているのか、あまり意識しないようにしているが、ハッキリしていることは、ソ之字の時と比べて、力の(体幹部の)抜けが起こらず、今までより楽に動ける実感がある。今後またどのように使いかたが変わるか判らないが、重要な部分であることには間違いない。

 逆手の抜刀の場合、特に鞘とのこじれが置きやすくなってしまう。そのためには、小太刀を用いての「太刀奪り」の稽古がいいように思う。私の場合は、甲野先生による小太刀を用いての太刀奪りの動きから、逆手で抜刀し体の開きによる鞘引きをおこなわず、身体が前方へ移動しながら上部へと逆手に抜いてゆく「逆手前方抜き」というそのままの名称だが、数少ない逆手による抜刀の稽古として大いなるヒントを気づかせて頂いた。

 他の抜刀術においても、少しずつ変わってきている。先にも述べた足の向きによる影響もあれば、柄から手を離している影響もある。柄に手を掛けることで、動きが制限され、逆に抜きづらく結果として遅くなってしまう。鞘を割ってしまう可能性も高いと思う。

 身体の姿勢、重心、手足の連動、纏まるための脚足の使いかた、体幹の移動とそれに伴う抜刀など、身体に回答を聞きながら修正している感もある。今後はどのように修正されてゆくのか判らないが、今までと違った視点から稽古をおこなうことで、きっと新たに見えてくるものがあるように思う。その次に見えてくるものはどのようなものなのだろうか・・・・・・そこにいくためには、まず次の稽古である。


2013-07-09(Tue)
 

安定を破る難しさ

 抜刀術の稽古法で、今まで見過ごしていた部分に、今後は手を入れていかなければならないと、判っている事の出来ない難しさというものが、抜く前、抜いた後における、いわゆる「静と動」の難しさを痛感した。

 今までは私の性格の好みからなのか、激しい「動」の動きに目が奪われていたが、これからは「静」の部分における身体と心の連動を見つけなければならない。無駄な動作を極力削ってゆくこと、居着かないための不安定さを、「静」という縛りにかけることで、不安感とどう折り合いをつけ、間を掴むことができるか・・・・・・

 これは極めて難しいテーマに遭遇してしまったが、悪い部分は明解である。その判っているがなかなか出来ない、安心感という、慣れの間をどのように崩し変えていけるかが、実に興味深くもあり、さらなる実感を手に入れるためには、私はなにかに憑かれたように集中的に取り組むのであろう。

 抜刀術も杖術も、私が思うにもっとも難しくもっとも興味深い部分は、すべてが繋がり連動しているなかで、技の瞬間以外の身体の使い方や心の持ちようであるように思う。抽象的ではあるが、今の(技が発する)瞬間というのは、予測というか、ある程度のイメージが出来ていて、その意識の集中は、その先や全体を含めた空間づくりにあるように思える。とにかく今後の抜刀術稽古における「静」の使い方を、技の進展のために精進するのみである。


2013-07-06(Sat)
 

振りが変わればカラダも変わる

 ここ最近は、今まで以上に自分の体に対し時間を掛けて、今後の身体作りのイメージを考えながらおこなっている。身体がまとまる方向性に稽古内容が変わってきたことで、剣の振りが変わりだし、さまざまな構えや姿勢、それらを、剣術や抜刀術で検証し、ときには身体を壊したり、その負担になっている部分を検証し、エネルギーが弱い箇所に流れないように、よりまとまる位置を確認し修正した。

 現在の稽古では、杖術、抜刀術に並ぶほど、興味と集中をもって臨んでいる剣術と言えるのか判らないが、左右の袈裟斬りを、ロス無く起こり無く最適な加減でその位置へ振り下ろすことを目指した稽古である。これは、軽い木刀でおこなえばなんとなくこんな感じかなと感じられるが、重い木刀や、真剣などでおこなうと、手之内と柄に掛かる伝達の誤差や、振り下ろす感覚と実際に切っ先がそこにいっている誤差など、身体全体の調整をおこないながらも、意識はまた別のところに置くようにおこなう。そのため一振り一振りにおける、精神と肉体の消耗が激しいのだが、先も述べたように杖術や抜刀術に匹敵するほどにのめり込んでしまう。

 だが、困ったこともある。起こりなく力感に過不足なく、精神の強弱もなく、振り下ろすことを目指すのは、全身が調整のとれた纏まりであることが求められるように思う。実感としてこの袈裟に振り下ろす稽古をおこなってから、故障はあったものの、体幹部の変化を感じる。そもそも4月末に柄を握る際の手之内の作り方から始まり、剣を振る始めと終わりの感覚の新鮮さの衝撃に、何度も今までの握りと比べ、力感や身体に跳ね返ってくるエネルギーなどの違いを体感し、そこから、背中の姿勢や、脚足の位置と使い方など、全身に点検部位が広がっていった。その影響は自然と杖や抜刀の操法にも影響が出始めている。困ったことというのは、以前私が集中しておこない、また今後も進化させながら取り組みたいと思っていた、剣術における「組太刀」に疑問が出始めたことだ。未熟ながらおこなっていた三年以上前の映像をひさびさに見たが、自分が記憶していたものと映像で見たもののギャップに驚き、これは、身体の目指す方向性が具体的に変わってきたので、組太刀というものも根底から変わらなければ破綻が生じると理解したのである。それについては、まだまだ未熟な私であるので、まずは左右の袈裟に振り下ろすことから、剣術の一歩として新たに身につけて活きたいと思う。


2013-07-04(Thu)
 
プロフィール

金山孝之


       金山 孝之
   Takayuki Kanayama


松聲館 剣術技法研究員

金山剣術稽古会主宰

Gold Castle
殺陣&剣術スクール主宰

高齢者のための剣術教室
クラーチ剣術教室講師


――――――――――――――

1975年生まれ
福岡県 北九州市出身
東京都 世田谷区在住

1999年
映画監督中田秀夫氏との出会いにより俳優デビュー。他分野では、マンダムのモデルや舞台のプロデュース公演などの活動をおこなってきた。

2006年
小林照子先生とのご縁から『 からだ化粧 』のモデルを務める。

2009年
武術の道を志しそれまでの活動を一新し武術稽古と研究に励む。

2011年
武術研究家甲野善紀先生に師事し身体の使い方を研究しながら、『 抜刀術 』『 剣術 』『 杖術 』『 体術 』などの稽古と研究に取り組んでいる。また、先生の書籍、番組撮影、記録映像、その他演武等における打太刀や受けを務めている。

2013年
刀と身体操作の技術向上を目指し裾野を広げるべく
『Gold Castle 殺陣&剣術スクール』を立ち上げる。

2014年
甲野善紀先生より
『 松聲館 剣術技法研究員 』という名称を頂き、自身の経験を活かした指導法を各道場等でおこなっている。
 
高齢者向け住宅にて
『 高齢者のための剣術教室 』をおこなっている。

日信工業株式会社の製品「SAMURAI BRAKE」のプロモーション活動をおこなっている

2015年
『 GM happy コラボレーション 』と題し、ジャンルを問わず定期的にゲスト講師をお招きし、特別共同講習会を開催している

『 金山剣術稽古会 』を立ち上げ、現代における武術稽古の必要性を、身体と心で学べる場として活動している。

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