骨格メンテナンス

 先日、4時間の武術稽古の中で、首を落として身体のまとまりというものを検証していた。その際に以前にも書いたが、胸椎あたりが強張りこれは身体に悪いと実感したのであった。それから2週間が過ぎ、どうにも状態が良くないので昔からお世話になっている整骨院に行ってきた。

 まず、仙骨周りが硬く腰全体がガチガチになっているということ。これは、ソ之字立ちからハ之字立ちに切り替わったことが大きく影響していると思われる。そして、足の内側から、腹に向かって入力を掛けた際の軸のまとまりを、あらゆる場所で試しているので、慣れていないぶん疲労が蓄積しているのだろう。

 次に、第七頚椎が歪んでいた。施術者の先生から「第七頚椎というのは太い骨であるので、あんまり歪んだりしないんですよ」と言われ、やはり首を付け根から落とし込んだ姿勢が原因であろう。

 その他、先生から「左の僧帽筋が凄いことになってますね」と言われ、左の肩甲骨の歪みと合わせて、治療していただく。このところ、どうにも身体を動かしたくない状態であったので、ずいぶん久しぶりに整骨院へと行ったのだが、ここまで状態が悪いとは予想していなかった。

 技の効果を検証するために身体自体を壊してしまっては元も子も無い。使える身体使える構造を目指し、少しずつ身体を変えていこう。しかし、こういった骨格のプロであり素晴らしい手の感覚を持ち施術をされるこの治療院の院長先生には、これからも、定期的に身体を通じて何か学べることがあればと思う。


2013-05-31(Fri)
 

2013年6月 武術稽古日程              (剣術・抜刀術・杖術・体術)

稽古見学、または参加希望の方はこちらのブログの【お問い合わせ】よりご連絡下さい。

6月3日(月) 16:30~ 高田馬場 


6月7日(金) 16:30~ 高田馬場


6月10日(月) 16:30~ 高田馬場


6月14日(金) 16:30~ 高田馬場


6月17日(月) 16:30~ 高田馬場


6月日21(金) 16:30~ 高田馬場


6月28日(金) 16:30~ 高田馬場



※稽古時間は都合の良い時間帯内(16:30~21:00の間)で構いません。もちろん最初から最後まででも結構です。前日までには希望日時をメールまたは、お問い合わせフォームよりお知らせください。

※稽古場所の詳細や稽古内容、稽古時間のご相談、稽古費用や道具類その他のご質問等につきましてはメールまたは、お問い合わせフォームよりお受けいたします。

※都合により日程が変更となる場合がありますので御了承下さい。


2013-05-30(Thu)
 

自然に任せるということ

 こうでなければならない、つじつまが合わないなど、そういったこだわりが失敗につながることがある。

 昨日は、得物5種類用いて4時間研究稽古をおこなった。雨による湿度で汗が引っ切り無しにこぼれ落ちた。

 とにかく現在は、「纏まりを作る構造と伝達ロスを無くす操法」というものに着目し、剣術、抜刀術、杖術などにおいて、カラダの使い方というものを点検し組み替えている。おそらく以前は「可動域を最大限使える構造と重心移動に入るための上体と下体の使い方」というものであった。

 この変化には、2012年まで私が当時、会で指導していた立場から離れ、存分に縛りから解放され研究に取り組める環境になったことが大きい。そしてその研究に自分自身のテーマや、記録、気づきなど、今までは考えられなかった一人稽古での充実した重要な稽古の流れがつくれるようになったのは、さまざまな出会いのおかげである。

 もちろん武術を始めて、さらには武術に出会うまで、この流れにおいて出会った方々の全てに、ご縁をいただいたことに感謝しなければならない。振り返れば人と離れるその瞬間の出来事は、誠に残念で余りいい心の状態ではないものである。しかし今を思えば、そこから成長するための日々がスタートするのである。それは瑞々しく生きていくためには留まっていられないのである。武術年数と現在の自分というものが、毎年、一年目、二年目、三年目、四年目と、焦りとともに、昨年毎を振り返り確認してきた。毎年必ずと言っていいほど、想像していない環境に変わっていた。これはそうでなければならないし、翌年、翌々年以降もせめて自分の身体においてでも、現時点での予想を超えるなにかを身につけたいと願う。それは、私が三十四歳で武術を始めたこともあり、一五歳~二十歳まで五年間ボクシングをやっていたとはいえ、武術に関しては、圧倒的に時間が追いついていないのを実感しているからである。そういう部分が稽古時における張り詰めたような緊張感になっているのかもしれない。

 剣の操法にともなう身体の使い方の変化について戻ると、私が最初に学んだS師範という方は、30年位前に松聲館道場で稽古されてきた方で、他にも中国武術や空手、キックボクシングにカポエラなどさまざまな武術をおこなわれてきており、さらには修験道により断食二十日間などさまざまな行をおこなわれている方でもある。海外に滞在された期間も長く、年に数回ヨーロッパやブラジルなどで武術指導をおこなっている。とにかく凄まじく、世の中にこのような生き方をしている人がいるのかと衝撃を受けた思いである。そのS師範に初めて武術というものを教わった。

 杖術は現在の基礎となっている、水車、裏車、巴、回し打ち、四方突き、下三方突きなどである。抜刀術は松聲館初期の頃に学んだと思われる抜刀術をS師範流の身体の使い方により約二十種類ほどを伝授、剣術は鹿島神流の組太刀、裏太刀、実戦組太刀、合戦組太刀、相心組太刀の三十四手、槍術は十手、薙刀術は二十手を厳しくも優しく叩き込んでいただいた。この槍術と、薙刀術に関しては、正月にS師範の家を訪ね、梟やイヌワシ、イタチなどがいる部屋で二人で研究し、河原で稽古したのを覚えている。他にも、一年ぐらいの短期間であったが、身体を練るために形意拳をマンツーマンで学んでいた。高円寺にある公園でおこない、夕方から暗くなるまで、通行人に見られる恥ずかしさも忘れ稽古に励んでいた。今思えばとても贅沢な稽古環境であったが、他に稽古生が少なかったために、このS師範と存分に稽古できたのだ。

 あらためて思うことは、初めて武術というものに接した際にこのS師範であったから、純粋に緊張感をもって(勝つか負けるかというこだわりに遠慮はないものであった)おこなう武術に魅力を感じたのかもしれない。(もちろん今となっては、当時の自分ではないので感じ方も変わっているとは思うが・・・・・・)おそらく、私自身ボクシングというスポーツで、グローブをつけているとはいえ、本気で自由に殴り、殴られるという経験をしてきたから感じる部分が強いのだろう。システマやアルニスといった、格闘術もしばらくの期間取り組んでいたが、常にガチンコ勝負に近いS師範との稽古はスリリングで激しいものだった。ときにシナイを捨て蹴りや寝技による関節を決められることもあったため、やられまいと必死に抵抗していた。さらには、道端でとつぜん背後から殴りかかられることもしばしばあったので、常に稽古場へ向かう際には周囲に気を張っていた。
袋シナイとはいえ、面や籠手にアザが出来るのは当たりまえで、面や籠手を打たれて痛くて飛び上がることは日常茶飯事であった。そんなS師範と二人ポルトガルに稽古に行ったことがあった。

 目的は、ポルトガルのお弟子さんたちに稽古をつけることと、スペインにあるユーロ圏に発刊されている武術雑誌の撮影のためである。まだ武術を始めて八ヶ月の私が無謀にも同行したのである。

 長くなりそうなので、そのことについてはいつかまた機会があれば記していこうと思う。とにかくS師範から現在の基礎を学び、そこからさまざまに人の出会いとともに、武術も変わり、現在に至っている。S師範とは、私とは関係のないところで、会から離れ、あれだけの濃密な稽古が夢でも見ていたかのように、突然この世から去ってしまったかと思うほど縁が切れてしまった・・・・・・

 そのことについては、今まで触れたことはなかったのだが、なぜだか当時から自分の中に、人と武術の縁の流れというものを感じるものがあり、それから一度も連絡したことも受けたこともなく、何度かバッタリお会いしたことはあったのだが、それぞれの武術、それぞれの縁のなかで、自然に任せるしかないと思うようになったのである。個人的にはS師範とは喧嘩したことも恨んだことも無く、ただ武術の稽古に真剣に取り組んでくださった存在であり、現在の基礎を導いてくださったことに大変感謝している。

 それから私自身、「自分で考える」という、今思えば当たりまえのことに目が向き出した。しかし、当時はまだ会に属していたため、なかなか自由に考え自由にチャレンジするということは難しく、全ては管理の下規制されていた。そのため、自分の身体から湧き上がってくる疑問と、よく見えるようになった環境がもはや、武術を学ぶという行為において矛盾してきたのだ。私は矛盾のままに取り扱うことが出来なかったのである。

 師範が去って一年十ヶ月、私自身も去らなければならない日が訪れた。まさかこのような日が来るとは夢にも思わなかったが、関わった全ての方に迷惑を掛けてしまったので、私自身大変な人生の軌道修正となってしまったが、これは頭で考えれば、誰がみても大損をする馬鹿な選択を私がしてしまっているのだが、おとなしく言うことを聞いて言われた通りにこなしていれば、生活の面でも、仕事の面でも、今よりも安定し当時の夢に向かって近づけたのかもしれない・・・・・・

 しかし人と武術の縁の流れというのは、私にその楽な選択をさせなかったのである。現在の稽古における気づきの源泉からの研究と検証がどのような目的のためにおこなわれているのか判らないが、今までの、人と武術の縁を感じると、今おこなっていることが私の道かもしれないし、本来の軌道はこちらだったのかもしれない。それは、エンターテインメントと武術というものの(一部の限られた存在を除いて)ハッキリとした交われない核の部分に気づき始めたからなのかもしれない・・・・・・

 武術稽古によって見え方、感じ方が変わってくるのは、決まりの無いルールのなかで、強制されず、自分の身体、相手の身体を通じて感覚というコミュニケーションを測り、実感を伴うごまかしの無い回答を得るからであり、自然、誤魔化したり、取り繕うということに、身体が拒否反応を示すようになるのだと思う。したがって、そのような今までなんとも思えなかった、誤魔化しや取り繕いの環境が苦しくなり、極力避けるようになってきたのだ。こうなってくると益々、これからの私の人生や、共に学べる仲間と出会えることは厳しくなってくるだろう。

 だが、それに反して武術稽古における日々の収穫は格段に上がった。まだまだ余りにも勉強不足であるが、ずい分前に述べた、構造の使い方の変化はそれまでの可動域を最大限に使うものから、腹を中心に纏まる使い方に変わった。まるで、宇宙がビッグバンを起こしてドンドン広がってゆくように、身体各部を大きく使う方向性だったものが、現在は膨張していたものが、元の方向に向かって収縮させるような方向性に向かっている。この変化は甲野先生の影響が強く、やはり柄を寄せて持つということから、自然に身体が統御されてきているのだと思う。

 自然に、足はソ之字立ちからハ之字立ちになり、胸は伸ばしていたものから、ややへこませるぐらいになった。これは私にとって、大きな変化で特にソ之字立ちからハ之字立ちに変わったのは、身体の使い方が全く別物にならざるを得ない。しかし実感を伴えばこれほど興味深く楽しいことはない。さまざまな抜刀術や、剣の振りをフルモデルチェンジした操法で取り組んでいる。

 さらに昨日は、首の位置による身体への影響(より纏まるための)というものを研究するために、首を落とす感じで顎を上げて構えてみた。コレが失敗であった・・・・・・

 身体に悪いということに、稽古が終わって気がついた。ドーパミン放出中の4時間中の2時間はこの首を落とした感じから受ける腹へのまとまりが、「これは!」と思っていたにも関わらず、稽古中もそうであったが、終わってからの、胸椎の違和感に「これは止めた方がいい」と教えられた。やはり、身体はなるべく真っ直ぐに使った方がいいということがあらためて実感できた。真っ直ぐに使うには、力は垂直に働かせたほうがいい。そこには脚足の使い方が関わり、その力を通すために、上体は傾けないほうがいい。しかし、あまり決め付けずに自然に任せることがいいだろう。背中の短時間における、今までにないこの疲労は、より纏まるにはこうであろうと決め付けた結果、身体がそうじゃないよと、知らせてくれたのだ。かつての私であれば、構造も何も無視し、疲労することが稽古として当たりまえだと、立ち上がれなくなるまで酷く悪化させてしまっただろう。

 私のような、武術経験の浅い未熟者は、まず自分の身体に耳を傾け、コミュニケーションを測り、身体からの教え、訴えに敏感になるようにして、学んでいかなければ時間ばかりが経過してしまう。思わぬ長文となってしまったが、良い結果から学べるだけでなく、悪い結果や失敗かもら学べることもあり、集中していれば、どちらにせよ学べることは必ずあるはずだ。好きなこと情熱を傾けることが出来るものであれば、やればやっただけ得るものがあると思う。そのような、人と武術の縁の流れが、今後どのようになるのか想像もつかないが、自然に任せて、私は私のやるべきことをやるのだろう。


2013-05-21(Tue)
 

鶏が先か卵が先か

 武術稽古をおこなうなかで、カラダの構造やその扱い方というものに必然的に関心が高まってくるが、そこには、安易でない身体と心の関わりが密接に絡んでいて、常に点検しながらおこなうように気をつけている。それは、未熟な私には難しい部分でもあり、気持ちでこうしようと思っていても、身体の構造や働きは捉えきれてなく、また、この構造とその操法であれば捉えることが出来るだろうと思っても、心の起こりがジャマをしてしまう。

 しかし、武術稽古を進めていくなかで、身体への意識が気持ちや感情に影響を与えることに気づいてきた。例えば、横隔膜が下がっていれば、重心も沈み、気持ちの面でも落ち着きがでるように思う。顔の表情にしても、筋肉を緊張させてしまうと、肩も硬くなり易く、感情的にも張り詰めてしまいがちになってしまう。一般的に人は外見では判断出来ないと言われるが、顔つきでは充分に判断出来ると思う。相手に意思を伝える表情というのも、顔と身体の繋がりを考えると、そこの調整で心にも影響を及ぼすのではないかと感じている。

 今まで出来なかった技などが、上手くできるようになるには、結果としてそういった最適な身体の構造を作り上げているのだと思う。それが、身体を意識し構造を整え、自然とそれに適した心の状況になるのだろう。

 道場や稽古場という守られた環境では、そういった身体と心の状況づくりは整いやすいかもしれない。しかし、それ以外の日々の暮らしのなかで、いろんな状況や環境のなかに入らざるを得ない。そこにあるルールとバランスを保ちながら継続していくことは、困難なことである。離職率の高い会社など話題にもなっていたが、心と感情を保っていられるためには、カラダに嘘をつかずにどこか目を向けてあげられる箇所に気づけると、なにか食い止められることもあるような気もする。これは、私が感じている道場以外でのテーマでもあるが、ココロにカラダがついてくるのか、カラダにココロがついてくるのか、どちらにしても武術稽古で得られるものを、どのように日常の暮らしに役立てることが出来るかと、日常の些細な反省の積み重ねから思うことである。


2013-05-20(Mon)
 

ジグソーパズルのように

 生涯を通じて情熱をかけられるものを追求しようと22歳から役者の道を選んだのだが、今ではもう完璧に役者という意識は消えている。僅かながらでも、映画、TV、CM、舞台、雑誌などの媒体で仕事をしてきた。不思議なもので、人間というものは思い続けているものに出会いとチャンスがあり、それは役者人生の中で何度も経験したことである。

 現在は武術稽古に情熱を注いでいるのだが、その役者人生をなげうってでも余りある思いというものが私の学んでいる武術稽古にはある。この感覚はおそらく武術と縁の無い方には理解し難いものかもしれない。私自身、自分がなぜこのような人生を進み始めたのかは解らない。なにかが、時間が足りてない自分に対して猛烈に詰め込んできているような、そのなにかを探すために武術稽古と合わせて発想が変わってきているような気もしている。これには微かな実感を覚える。

 まるでジグソーパズルのように、ある目標を達成するために一つ一つのピースを合わせていかなければならない。しかし、なにがなにやら解らず手に付かないだろう。手掛かりを見つけるために、最も解り易い外枠の四隅から繋げていき、次に解り易い模様や色合いなどを、それぞれに分けておく、どこにも属さない解らないピースも、凸の部分が多いもの、凹の部分が多いもの、変形したものなどに分けておく。そのカテゴリー毎に分けたピースを繋げていくことで、また新たなカテゴリーが発生し、その連鎖が効率よくピースを埋めていくには有効だと思う。

 武術稽古や、人生の歩み方も同様に、何かを求め自分のものにするためには、手掛かりとカテゴリー毎の環境づくりが、のちの繋がりに活きてくると思う。成功へのマニュアルなど無いのだから、自分で見つけなければならない。私がおこなっている武術稽古で例えるなら、使える身体になるために、質的転換を果たさなければならないのだが、その手掛かりは、先生や指導者からの教えはもちろん重要であるが、身に付けるためには自分で気づき自得しなければならない。杖術、剣術、抜刀術、体術、などに共通する手掛かりはそのどこかに埋もれているのである。そこを発掘し見過ごさず、検証しピースが埋まりそうになったなら、その目標を大きくし(完成間際のパズルのサイズを拡大させるようなもの)また発掘、検証作業をおこなっていく。つまり、自分で「もう1000ピースで充分満足した」と思うのか、「いや、さらに1000ピース、さらに・・・」となり、人生でいったい何ピースの大作を作り上げようとしているのかという情熱の違いで、諦めかけていたことや行き詰っていたときに、続けていたどこかのカテゴリーのたったワンピースが埋まったことで、劇的にすべてが繋がっていくこともあるだろう。私にとっての、人生のピースを埋めるカテゴリーは現在この武術稽古に存在しているのかもしれない。


2013-05-18(Sat)
 

身体統御を導く剣の存在

 約15年振りに健康診断を受けてみた。居住場所によっては、健康診断の受診通知のようなものが送られてくるそうだが、私の住んでいる世田谷区では、受診の通知が来ないため、インターネットで調べて探したのである。それが区民健康診断というもので500円で受診できる。

 4月22日に検査をおこなったため、今日はその診断結果を聞きに行ってきた。

 結果は異常なしであった。ただ、HDLコレステロール(善玉コレステロール)の値が男性の基準値40-85㎎/dLなのに対し、118㎎/dLであった。担当の医師からは、高い値については、他の数値との関係も含め問題ありませんとの回答であったが、医師から「御身内の方に長生きの方はいらっしゃいますか?100歳ぐらいの方はいらっしゃいますか?」と質問され「・・・普通だと思います。」と答えたが、後で調べたところ、遺伝的要因があるそうで長寿症候群というものに関連している可能性があるらしい。しかし、身内を思い浮かべてもとくべつ長寿の方は記憶にないので、あまり関係もなさそうである。

 午後からは剣術の研究稽古である。ここ最近気がついた重要なテーマである『纏まりを作る構造と伝達ロスを無くす操法』に着目してみた。以前の認識では、「バラバラに動いていたものが最終的にどうまとまるか」という捉えかたで取り組んでいたが、上記にある気づきから、「バラバラではあるが、身体が纏まるための統御をとり、纏まったまま初動から伝達ロス無く動かなくてはならない」という操法に変える試みをおこなった。

 このことは以前、真剣を振っていたときにハッと気づき、手之内から柄に伝わるエネルギーロスを感じ、それが振りに現れたことから、『水を掻く原理』なるものを考え、アソビのない(手の平が締まって水が抜けにくいように)構造で、最適な力(水を捉えきれず自らの腕のみを強引に動かしてもエネルギーが余分に散ってしまう)であることが重要であると気づき、剣に対しても同様であると認識したのである。

 その身体統御の感覚を身に付けるために、左右の袈裟斬りをおこなっている。なぜだか武術稽古を始めたころからこの袈裟斬りというものにはこだわってきているのだが、このような感覚を絞り出すための重要な稽古法になるとは思いもしなかった。

 しかし、この袈裟斬りは一つ振るだけでも大変なのである。なにも考えずに力で振れば楽であるが、まず、脚足は足底から腹に入力させるためにソ之字では無くなった。足幅も同様の問題から、一直線上に揃えず、約2足分は横幅を開けている。腰は後傾気味のほうが楽であるが、初動のアソビをとるために、立てながら腹も関連して前に出る。そうすると肩も微妙に落ちてくる。顔は水平に、手之内は親指と人差指を絶対に握り締めないこと。(肩に起こりが生まれ、剣の重さから肩が引っ張られてしまう)柄は当然寄せて持ち、肩が落ち体幹部とのまとまりがある位置へと構える。そしてもっとも重要なことが、手之内と剣を同化させる意識をもつこと。そのことで、身体の微妙な働きが統御され、剣の目的に対しもっとも効率のよい身体各部の働きがおこなえるようになるのである。これには実感があった。

 重たい木刀の末端を持ち、上記の操法で左右とも振ってみたところ、自分の予測していた到達速度よりも、若干早く到達している感じが何度かあった。さらには、その時スーっと抜けるように、詰まりなく到達する感じは不思議である。まるで抜刀術のように、構えから斬り下ろすまで、身体各部を調整しなければならない。だが、この微妙な調整や心理的作用は、言葉で説明できないが絞り出されてくるものがある。例えば、構えだけでも飽きないような身体各部の統御があり、そこから一振り振り下ろすだけである。傍から見れば、ジーっとしたまま、一点を見つめ、ようやく一振りだけ振り終えたというふうにしか思われないだろう。私自身も、果たしてこの稽古が本当に身につくものになるのだろうかと思うこともあるが、テーマと、操法と、実感が当てはまっているため、今までおこなっていた激しい素振りと比べて真逆といえる稽古であるが、精神的にはこちらのほうが疲れるだろう。

 帰ってから、身体への変化を実感した。ジョギングをした際に、稽古でおこなった脚足の使い方に切り替えた瞬間、まるで自動装置が付いたかのような身体の纏まりと前に進む疲労の少なさを感じた。そこで、普段通りに戻してみると、途端に腕やら脚やらが重たくなり、「なんだこれは!」と思わずにはいられず、何度も切り替えては、確認したが、本当にスイッチのように違いが感じられたのだ。そこで、歩きの場合はどうだろうかと同様におこなってみたが、やはり同じくスイッチのように、切り替わることを確認した。別に難しいことをしている訳でもないのだが、感覚的な微妙な統御は、剣による袈裟斬りで記憶した身体の応用なのかもしれない。まぁしかし、多少興奮冷めやらぬ気持ちが治まっていないため、もうしばらく様子をみて明らかにしたいと思う。


2013-05-14(Tue)
 

最近の食事について

 元々あまり食事のメニューについてこだわりがないので、自宅で食べる基本的な内容は10年以上前からほとんど変わっていない。ただ最近は少し変更があり、白米から玄米や古代米に、甘いものは好きであるが、少しずつ口にする量が減少してきた。そうすると、以前に比べ甘さがキツく感じられるようになったが、あまり我慢や無理をせず摂取量は、カラダに判断を委ねたい。果物は滅多に買うことはなかったが、無くなると買うようになってきた。なんとなく、食後の身体の充実感、不快の無いものを選ぼうとするようになってきた。

 アルコールについては全く駄目になってしまったので(目が回り美味しいと感じられない)場の空気に合わせられなくなってしまったが、身体が無理である以上しょうがない。まぁ、お酒の付き合いを必要としない現在の環境であるため、ペースを乱される心配も無い。

 玄米については、数年前に購入したときは、上手く炊くことが出来なくそれ以後購入していなかったのだが、たまたま近所に自然食品のお店があり、フラッと立ち寄ってみたら、なんとも高い値段の玄米が目に入り、このぐらいの贅沢は身体への御褒美だと思い、古代米と合わせて購入した。古代米はモチモチしているため混ぜて炊くと食感のバランスがよいと思ったからである。いろいろ炊き方を調べたが、なにしろごく普通の電気炊飯器であるため、玄米炊きなどの機能はない。

 とにかく、玄米を水に数時間浸けることが重要である。まずは、かるく2~3回水で洗って、水を切ったあとに、両手でこすり合わせるように拝み洗いを数回繰り返す。こうすることで水の吸収力が変わるらしい。水が濁るため、2~3回洗ったのち水に浸す。とりあえず24時間浸したあと、玄米1合に古代米を小さじ2杯ほど加え、水を1.2倍ほど多めに入れ炊いてみた。

 炊けたら15分蒸らし、いざ確認。

 固さがまだ残り、よく噛まなければお腹がつかえるレベルであった・・・・・・

 再度チャレンジ。炊けるまでの工程は同様に、今回は15分蒸らした後、水を少し加え、もう一度炊飯スイッチを入れてみた。約20分後炊飯完了とともに、確認。

 これなら、胃腸の心配をせずに普通に食べられる。水に浸す時間が無い場合は水を加えての二度炊きがいいようだ。

 しかし、それらに比べて味と風味と食感に圧倒的な違いが出ることが分かった。それは、48時間水に浸すこと。玄米はまだ生きているためこのまま浸していれば発芽玄米となる。現在は48時間以上浸してはいないが、24時間と48時間ではまるで違うことになんでもっと早く気がつかなかったのだろうかとショックを受けるほど、二日浸した玄米は美味しい。 まず、炊き上がった際の香りが全然違う。食感も普通で、古代米をブレンドしないでも大丈夫である。この48時間水に浸した、ふっくらと水を含んだ玄米を生で摘んで食べてもなかなか美味しい。これはまったく別物かと思えるほど変わってくる。次回試しに少量の玄米を水に浸して、冷蔵庫で何日目がベストなのかをテストしてみたい。

 結果として、普通の電気炊飯器(玄米炊き機能無し)でも、48時間(夏場は冷蔵庫で)水に浸すと美味しく食べられることが分かった。炊く前に塩を少々入れておくと甘みが出るようだ。 


2013-05-12(Sun)
 

意識の持ち方と最適化の関係

 『袈裟斬り』については武術稽古を始めた頃からなぜだか判らないがこだわり続けている。この太刀を斜めに斬り下ろすという至ってシンプルな動作であるが、シンプルゆえに身体各部分を集約させるのが難しく、さらに精度を上げていくための何かを探し求めるのである。

 私がおこなっていた初期の袈裟斬りは、足幅が肩幅より広く45度以上に足をソ之字に広げ柄を離して持ち、左手小指は柄頭に掛かるように外して持っていた。腰を反り両腕をの伸ばしたまま垂直に下ろしながら体を開き、引き斬りに振っていたのである。今にして思えばその頃は身体の構造など考える余裕もなかったので、ただそのイメージした形に、身体と喧嘩しながら強引に取り組んでいた。その時は、気合いを入れながら、やった感で良い悪いの判断も全く判らずに、頼るべき感覚は、スピードや威力でしか感じ取れなかったのだ。しかし、そういった腕力的な力に頼ってしまうと、肩は詰まり体は居着き、その斬り下ろす瞬間に帳尻を合わせるような初動からの連動になってしまい、絶対に体術に繋がる操法ではなかった。

 それから、「骨盤おこし」や「股割り」で有名な中村孝宏先生による構造動作理論から、人体の骨格構造の可動、得に股関節の働きについて学び、可動域を効率よく使える操法へと改善した。この頃から、自分の身体を観る感覚に気づき始めたのかもしれない。

 現在は、可動域ではなく、身体から得物まで初動から最後までまとまることを意識しておこなっている。そのため、袈裟斬りでは、足幅は一歩下がった程度で、足は真っ直ぐかやや内に向いた位置であり、柄は寄せて持ち、人差指と親指の間隔はずい分空けている。(龍之口と虎拉ぎの変形)腰は反らず、やや腰を落とし膝を曲げ、腹に集めて肩を抜く、そのまま初動から斬り下ろしまで、アソビなく切っ先もしくは切っ先の延長数センチが、身体のまとまりとともに、最適に移動しなければならない。
 
 この袈裟斬りでは、極めて感覚的な統御が求められるので(抜刀術に近い感覚)簡単には振れない。何の気なくスッと振れるようになってくると、さまざまな面において変化が表れると思っている。つまり、意識をどこにもっていくかで身体全体の調整が自然に変わってくるのだと思う。おそらくその意識においてその働きが最適なのかもしれない。気づいているようで、気づいてない意識の見落としは沢山あるだろう。身体を練ることも重要だが、その気づいていない意識に目を向けることは、どんなときでも出来ることである。

 可動域を使う操法と、可動域にロックをかける操法と、相反する二つの構造のしくみをどのように使いこなすかが、これから先へと進むためには、自分を壊し組み立てる作業として貪欲におこなっていく気持ちを持ち続けなくてはならない。そういった意味では、今日の研究稽古で、前脚の膝の内抜きによる問題も湧き上がってきた。これも改めて組み立て直す必要があるかもしれない。


2013-05-11(Sat)
 

相反するものとの共存

 五月はどうも調子がわるい・・・・・・

 昨年は急性腸炎となり、今年は風邪からくる喉の不調である。せっかくの今後の稽古における重要な部分に触れかけてきただけに、集中したい気持ちが山々だが、休むことも大事な稽古のうちと自分に言い聞かせ、休み慣れしない時間を過ごしている。しかし、継続するには休むことも重要という矛盾したテーマであるが、休みのとりかたにも自分のカラダを把握した上で予知しておこなう必要がある。

 怪我や病には、事前にカラダからのサインが発せられてくる。まぁ風邪などはカラダの調整だと思っているので、前向きに受け止められるのだが、長期にかかる怪我や大病にならないための身体への無理は、無理できるカラダであるためには無理しないほうがいいだろう。まるで禅問答のような言い回しになってしまったが、何事にしても相反するものからは逃げられないということだろう。そのふたつのバランスをどのタイミングでどの割合でおこなうかということが物事を進めていくためには重要なテーマでもあり、心のバランスとも関わってくるのかもしれない。

 武術稽古における重要な部分とは、先日真剣を振っていたときに気づいたことから、この数日間考え浮かんできたことが、今まで学んだことや体験したことが総合的に自分の中で、自分なりの核心のようなものに触れかけてきたのかなと思っている。曖昧であるのは、私自身武術経験が短いのと、頭の中での核心であるからだ。これからの稽古で、身体を通じての核心となるために稽古に精進したい。そして重要なことは、この武術における重要な部分は剣術がもっとも稽古に適しているのではないかと私は思っている。才能が突出しているひとは体術からでもつかめるだろう。しかし一人稽古では得物は必須である。感覚を研ぎ澄ませ精度を上げ身体を練るには真剣での稽古が一番かもしれない。だが、現実的に稽古場所の問題から、居合い刀や木刀でも問題ないだろう。しかし、今までに何度か得物から教えられたことは、真剣が身体に対してそれじゃぁ違うよ、というような違和感を気づかせてくれるのだ。大袈裟かもしれないが、危険である反面、扱い易いものを気づかずわざわざ扱いにくく取り扱っていることがある。

 しかし悩みどころでもある。この稽古法で剣の振りというものが変わってしまえば、組太刀というものが出来なくなってしまわないかということだ。まだ頭の中だけで先の展開を考えてもしょうがないのだが、逆に言えば今までやっていたものが、使えないものになってしまうほどの進展がなければ、研究稽古の意味がない。流派を継承するためにやっているわけではないので、常に、より使える、より有効な、なにかを発掘していける稽古でなければならない。そしてその発掘したものの分析は、今まで学んできた身体の感覚と、これからも学んでいかなければならない素晴らしい環境にある。安心と不安の共存するなかで、身体と心の舵をとりながら、予測のできない未来に驚き、感動し、怒り、悲しみ、悩み、笑い、その都度バランスをとりつづける視点で自分を見つめることも重要だろう。

 
2013-05-07(Tue)
 

纏まりと伝達

 いま手之内から伝わる力感、力加減というものに興味がある。

 身体がまとまる為の使い方の研究とともに、得物と身体とのまとまり、ロスの無い伝達、ブレの無い斬り下ろし。これは、前回気づいた水を掻く原理から、具体的に初動の使い方とその力加減を考え、その身体と得物の接点である手之内が重要であると考えた。

 得物の種類によりさまざまに手之内の使い方は異なってくるが、刀に関して、以前までは手之内における連動からおこなっていたのだが、最適な力加減というものを考えたときに、感覚として身体と得物のつながりにブレがあってはならないと気づいたことにあった。手之内による連動というのは、最終的に繋がっていく過程であり、そこへのプロセスにスムーズさはあるものの、その段階的になる時間がもったいない。かといってギュっと握り締めて力任せに振り抜くのも、必要以上のエネルギーが伝達ロスとなり、手之内と得物の接点からブレが生じてしまう。

 そこで検証してみた。まず、重たい木刀の末端を握り今まで通り振ってみるのと、身体のまとまりと、手之内による伝達ロスをなくす意識で振ってみる。すると、初動と振り終わりがあきらかに違うことがわかった。これは感覚的であるが、振り始めの瞬間と振り終えての反動が、手之内から身体にかかる衝撃が格段に少ない。そしてこの感覚は、私にとって新しい感覚であり、今後の方向性が示されたような気もしている。とにかく跳ね返ってくる衝撃が減少するため、何回もやっていると、肩より先の腕が血管が浮き出て筋肉がみるみる太くなってくる。今までにこのようなことはなかったのだが、腕にかかる衝撃も少なく、回数も僅かしか振っていないにもかかわらず、初動と振り終わりをロスなく伝達する意識でおこなうとこのようなことになった。さんざん振って疲れを乗り越えてこのような腕になるのならわかるのだが・・・・・・

 『速さ』というものの質を考えたときに、エネルギーの増大とともに起こり(伝達ロス)も付いてくる方向性(動)と、最適なエネルギーをロスなく伝える方向性(静)に分かれるような気がする。

 この感覚で素振りをおこなえば、今までとはまったく異なった意識でおこなうことになるだろう。そしてこの感覚はいづれ得物から相手の素手に変わったときに、さまざまな回答として教えられることになるかも知れない。


2013-05-05(Sun)
 
プロフィール

金山孝之


     金山 孝之
  Takayuki Kanayama


松聲館 剣術技法研究員

金山剣術稽古会主宰

Gold Castle
殺陣&剣術スクール主宰

高齢者のための剣術教室
クラーチ剣術教室講師


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1975年生まれ
福岡県 北九州市出身
東京都 世田谷区在住

1999年
映画監督中田秀夫氏との出会いにより俳優デビュー。他分野では、マンダムのモデルや舞台のプロデュース公演などの活動をおこなってきた。

2006年
小林照子先生とのご縁から  『 からだ化粧 』のモデルを務める。

2009年
武術の道を志しそれまでの活動を一新し武術稽古と研究に励む。

2011年
武術研究家甲野善紀先生に師事し身体の使い方を研究しながら、『 抜刀術 』『 剣術 』『 杖術 』『 体術 』などの稽古と研究に取り組んでいる。また、先生の書籍、番組撮影、記録映像、その他演武等における打太刀や受けを務めている。

2013年
刀と身体操作の技術向上を目指し裾野を広げるべく
『 Gold Castle 殺陣&剣術スクール 』を立ち上げる。

2014年
甲野善紀先生より
『 松聲館 剣術技法研究員 』という名称を頂き、自身の経験を活かした指導法を各道場等でおこなっている。
 
高齢者向け住宅にて
『 高齢者のための剣術教室 』をおこなっている。

日信工業株式会社の製品『 SAMURAI BRAKE 』のプロモーション活動をおこなっている

2015年
『 金山剣術稽古会 』を立ち上げ、現代における武術稽古の必要性を、身体と心で学べる場として活動している。

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