俳優時代の告白

 こうして過去を振り返り文章を起こす気分になれたのは、今の生き方や周りの環境が当時の私を客観的に捉えることが出来るようになったからだと思う。これから慎重に、どのぐらいの文章になるかは分からないが、辿ってきた道程を振り返ってみたいと思う。


『ボクシング部に入る』


 私が生まれたのは、福岡県北九州市門司区という、とてものどかで山と関門海峡に挟まれた坂の多い土地で育ちました。そのため、山で遊んだり海を眺めたりすることは日々の暮らしの中で当たり前でした。

 私の実家はグーグルマップで見ても緑一面の中に曲がりくねった道が一本しかないような所であり、家の裏山で祖父とともに竹の子を掘ったり鎌で草刈をしたり焚き火をしたり、そうした記憶が残っております。

 まわりの情報が少ない環境の中、当時は不良ブームといいますか、タバコにシンナー、改造したバイクに車、そうした人が集う学校や駄菓子屋が通学途中にあり、田舎のため自然と言葉を交わすことも少なくありませんでした。ただ私はそっちの方には興味が無く、次第に格闘技に興味をもつようになりました。

 高校へと進路を考えたときに、豊国学園にボクシング部があるという情報を知り、どうやらそこの卒業生に日本ランキング何位かのプロボクサーがいるということを聞いて、もう私の頭の中にはここでボクシングをすること以外考えられなくなり、結果としてここで三年間主将としてボクシングをおこないました。入部前に聞いていた卒業生のプロボクサーというのが、後の世界Jrバンタム級チャンピオンの鬼塚勝也氏でした。私が入部して瞬く間に世界チャンピオンへと駆け上がって行かれたその栄光を後輩としてジムで汗をかきながら、何度か試合を観に行ったものです。部室のリング下にはいろいろな卒業した先輩達の物が埋まっており、鬼塚先輩の名前が入った学校の教科書や写真などもあり、今では良い思い出として記憶に残っております。

 次は進学か、就職かという時期になり、先輩方はいずれもボクシングの推薦で大学に行かれたり就職されたりいたしましたが、私もどうやらその二択が選べることになり、私立高校のため学費の面で親に迷惑を掛けたことや、早く社会に出たいという気持ちから広島県福山市にある「NKK福山製鉄所」(現 JFEスチール西日本製鉄所)に就職し、そこのボクシング部に所属し実業団として大会などに出場しておりました。

 しかし、仕事をしながら減量をしながらボクシングの練習をおこなうのは、今思い返してみましても大変なものでした。同じ実業団でも野球部は昼で仕事が終わり午後からは練習でしたが、ボクシング部は皆と同じように残業もあり、それからの練習でしたので、高校時代の練習に比べて内容もかなり劣ったものとなりました。それは単に仕事の後だからではなく、ここでの環境に私が溶け込めず、結局二年ほどで、ボクシングの道から離れることになりました。


『養成所に入る』


 二十歳でボクシング部を辞め、これからの生き方を考える日々が続きました。会社は週休二日、多いときは三日ありましたので、考える時間は沢山あり、まずは好きなことをやってみてそれから考えようと、鳥取や島根でサーフィンをやったり、バーキン7という派手な外車に乗ったりいたしましたが不安は消えることなく「このままではいけない、ここに居てはいけない」という気持ちになり、「じゃあ、どこに行けばいいのか・・・・・・」というとき、フト読んでいた雑誌に俳優、タレント募集というページが目に留まり、物は試しに大阪にある「東京宝映テレビ」という養成所にオーディションの書類を送りました。

 数日後、私が住んでいる福山県引野町にある第七独身寮のポストへ東京宝映テレビからの封筒が届いておりました。部屋に帰ってドキドキしながら封を切りますと、第一次書類審査合格とあり、次の二次審査は面接ということで大阪に行き二次審査を受けることになりました。大手の養成所ということもあり、人数の多さに驚きながらも、台詞や歌に軽いダンスのようなものをやった記憶があります。とくに歌の審査では審査員を務められていた三原じゅん子さんの前で歌ったことが今でも恥ずかしい思い出でとして残っております。

 広島に戻り数日後、また寮のポストに封筒が届いておりました。「第二次審査合格」ということで、晴れて研究生として大阪の東京宝映テレビに通うことになりました。しばらくして会社名が宝映テレビプロダクションに変わりましたが、ここに毎月二回高速バスで通いながらレッスンを受ける月日を過ごしました。

 広島から毎月二回日曜日に高速バスで大阪難波にあるOCATで降り、履修生として一回につき二クラス四時間の授業をおこなっておりましたが、私の職場がこれまでの常昼勤務から三交代勤務へと変わったため、月に二回日曜日を休むことが困難となりました。
 そのため、月に一回新幹線で、夜勤明けなど時間がある週を狙って一気に四クラス八時間の授業に出ておりました。毎週参加している人に比べれば相当なハンデがありましたが、なにより「このままここに居ても意味が無い」という思いが強く、一刻も早く新天地に向かいたいという強い気持ちが、講師の先生方にも覚えていただけるようにもなり、その後の大阪へ引っ越した後の審査会による飛び級などを経て一番上へのクラスに上がり特待生の先輩方や、マネージャーさんからも声を掛けていただけるようになりました。


『いざ大阪へ』


1999年2月28日に最後の勤務を終え、3月3日に大阪市旭区中宮という裏に淀川が流れ、その脇に大阪工業大学がある場所へ引っ越しました。会社員時代の同期でボクシング部の荒竹君という友人が先に会社を辞めて大阪のグリーンツダジムでプロボクサーになっておりましたので、彼に大阪の地の事をいろいろと教えてもらいながら、千林大宮にあるエイブルの不動産屋で物件を決めました。

 引越しは、福山でレンタカーを借り、そのハイエースの荷台に全ての荷物を積み込み一人で大阪まで高速を使わず下道を通って向かいました。夜に到着し、道路沿いにあるマンションの最上階の角部屋エルベ中宮505号室だったと記憶しております。レンタカーなので返さなければならず、一時間ほど荷物で溢れた部屋の中で休み、再び下道を通って福山に戻りました。
 何も無い部屋で眠り、翌朝、寮長にお別れのご挨拶をし、車を売って当時足として乗っていたホンダのドリーム50という原付バイクに乗って再び大阪に向かいました。セパレートハンドルのため長時間前かがみに乗らなくてはならず、肩と腰が固まって大変な思いをいたしましたが、結局、大阪でバイクを乗る機会もなく、直ぐに近所のバイク屋に売ってしまいました。

 大阪では全てが活気に溢れ、居酒屋では直ぐに店主や他のお客さんと親しくなったりと、毎日が楽しく過ぎていきました。
 そんななか、さて退職金が入るが働かなくてはならないし、毎週日曜日はレッスンがありどういう生活にしていかなくてはならないのか・・・・・・そこで考えたのは、いつ仕事やオーディションが入っても準備できるように夜働くことにしようと、役者の勉強として人と接する仕事にしようとバーテンダーの仕事を探し、梅田の北新地にあるお店を選び、二件掛け持ちで17時から23時までと23時過ぎから5時までと慣れない大阪の地で、ワイワイと賑やかな街で、新地という大人の街で、これまでに無い経験を沢山させていただきました。

 一件目のお店は本格的なショットバーで、ロック氷を丸く、グラスぎりぎりに入るようにアイスピックで削り、そうした氷の仕込みや、お酒の勉強など、あぁ、これがバーテンダーか・・・・・・と、技術とさりげない会話の上手さに驚いたものです。そこから数十メートル離れた深夜から朝にかけての二件目のお店では、表通りに面した先のお店とは違い、ビルの二階ということもあり、お客さんがあまり入ってこないようなお店のため、表に出てともに働いていた先輩で年下の堅太郎君とよく通りでチラシを配っておりました。これはこれで、いつもやっておりますと、他のお店のホステスさんやママ、黒服のスカウトマンにボーイなど、気軽にお話できる人が増え、この新地の通りを歩くことも楽しく感じておりました。笑いあり涙あり、そうした男女のドラマが垣間見える劇場でもありました。

 そのうち、私も予定が入ったりなどで二件掛け持ちが難しくなり、深夜の暇な方のお店で働くことにいたしました。ですがこのお店はオーナーママがいて、いわゆるショットバーというよりは、ママのトークが売りのお店であり、元来人見知りの私は、出勤前に駆けつけ三杯ならぬ駆けつけ前一杯で出勤しておりました。

 今から思い返しますと、人間ドラマとは、その時間帯によってまるで別世界のものであると思えます。人が輝く時間帯、それが朝なのか、昼なのか、夜なのか、そういうものを観てこれたことは今となっては大きな財産です。


『中田秀夫監督との出会い』


 大阪に引っ越して約二ヶ月後の1999年5月29日に私の人生で大きな出会いがありました。
 
 私の二つ歳上の姉が岡山に住んでおり、岡山のシネマクレールというミニシアターで、岡山県出身の中田秀夫監督が、新作「ジョセフ・ロージー/四つの名をもつ男」というドキュメンタリー映画の上映がおこなわれるということで、中田監督の舞台挨拶&囲む会もあり、映画好きの姉に誘われるがまま私はあまりよくわからずに新幹線で岡山に行ったのを覚えています。

 シネマクレールでの試写会が21時からだったので、始めに中田監督のトークショーが小さな別室でおこなわれたと記憶しております。パイプ椅子が20脚ぐらいあり、そこで中田監督がお話しをされ、私は一番前の席に座り、目の前でいろいろなお話しを聴いたのですが、姉に比べて映画の知識が乏しかった私は、中田監督のヒット作「リング」も知らず当時「リング2」も撮られていた頃でしたので、この二十名弱の参加者で知らないのは私だけだったのかもしれないと思い返しますと、大変失礼だったと恥ずかしい思いが込み上げてきます。
 
 トークショーが終わり、懇親会が近くのレストランを借りきっておこなわれました。大きなテーブルに参加者は14名でした。この席で唯一俳優志望であった私に対して、中田監督が、「同業者の方ですか?」と仰って下さり、そのように接して下さったことに深く感激したのを覚えています。
 
 懇親会が終わり、私は姉と共に予約しておいたホテルへ向かうためタクシーを探していたところ、中田監督達も同じホテルということでしたので、中田監督と監督の学生時代の友人と私たち姉弟が乗りホテルへ向かいました。タクシーの中では何を話したのか全く思い出せませんが、なんだか自分がここに居ることが嘘のように感じていました。タクシーを降り、チェックインのためフロントへ向かおうとした途中で中田監督から「もう一軒行きませんか?」と仰られ、入ったばかりのホテルを出て再びタクシーに乗り小さなバーに行きました。

 暗い店内のテーブル席に座り、ジントニックばかりを飲んでも全く酔えず、監督の学生時代の友人の方が、私の緊張をほぐしてくださり、中田監督に役者の心得などについていろいろ質問したのを覚えており、その時にいただいたメモは今でも大切に持っています。名刺をいただいたのですが、私は持っていないため、監督の名刺の裏に大阪の住所を書いてお渡ししました。第一線で活躍中の映画監督と、俳優を目指して、まだ会社を辞めて二ヶ月余りの自分がこのような場所で、熱く語り合うのは私にとって衝撃的な出来事でした。中田監督からは、台本の読み方として全く感情を込めない、ジャン・ルノワールの「イタリア式本読み」や、日本の古典や名作と言われるものが勉強になり、映画はなるべく映画館で観た方がいいと御指導を受けました。さらに、俳優の「森雅之」を見なさいと具体的に仰られ、その時の私は、監督の言葉を逃さないように、食い入るように聞いていたことを記憶しています。

 いよいよ閉店時間となり、お店を出た時には外はすっかり明るくなっていました。中田監督とはその場で握手してお別れになりました。この一夜の出来事には姉と共に驚いたものでした。

 大阪に戻り数日後、中田監督から御手紙が届きました。その文面には、私たち兄弟の印象や、大阪または東京でお仕事をされる際にはいろいろと力になって下さるというものでした。そのお手紙は今も大切に持っております。


『映画に出る事に』


 この御手紙を頂いて三ヶ月後の八月に私は中田監督の映画「カオス」にレストランのボーイ役として出演することになりました。既に台本は出来上がっていたため、私の役と台詞は追加で付けていただきました。ワンシーンでしたが映画のオープニングシーンとなり、エキストラも経験したことの無い私は、カメラの前で演じる初めての経験でした。

 私には姉が二人居ますが、四つ上の姉が結婚して当時相模原に住んでいましたので、撮影前夜に姉夫婦の家に泊まらせていただき、翌朝まだ日も暗いうちに出発し、渋谷パンテオン前でロケバスに乗った記憶が微かに残っております。

 初めてのロケバスに監督、助監督、スタイリストさん、その他いろいろな方がいらっしゃいました。現場となるフランス料理店だったか、イタリア料理店だったか失念してしまいましたが、撮影のために貸し切っているお店に到着し、そこで衣装に着替え、セリフを頂き、非常に緊張しながら、「お待たせいたしました。」という人生初のセリフを映画の冒頭シーンで発するということに興奮しておりました。

 サイズの合う靴が無かったので、主演の萩原聖人さんが映画で履いていた靴を履かせていただいたことも記憶に残っております。会社を辞めて半年も経たないうちに、今この場でこうなっている状況に、人生の不思議さといいますか、夢のような気持ちがしておりました。私のシーンは僅かですが、中田監督からは、飲み物を置いたあとに、主演の中谷美紀さんと共演の光石研さんが座っているテーブルを見て「ああ・・・あのひとにお近づきになりたい・・・・・・」という風に見つめてください。という演出を伝えられ、たどたどしくおこなった記憶があります。

 中田監督以外、誰も知らない現場で非常に緊張しておりましたが、助監督さんや、スタッフさんが優しく接してくださったので、なんとか無事に乗り切ることが出来たと思います。一日だけの撮影参加でしたが、クランクアップ後に五反田にあるイマジカでおこなわれる試写会に呼んで下さり、そのイマジカのロビーのテーブル席で、主演を務めた萩原聖人さんが所属する事務所「アルファエージェンシー」の万代博実社長を紹介してくださり、ご挨拶させていただいたのを覚えています。当時、私は豊川悦司氏さんの芝居が大好きでしたので、その事務所の社長さんにお会いすることが出来て感激しておりました。

 試写会後の打ち上げでは、店内のテーブルで、中谷美紀さんや、光石研さんとお話しさせていただき、素人同然の私がこんなところにいていいのか嬉しさの反面、居心地の悪さもありました。素人の怖さといいますか、中谷さんに映画の印象で「怖いですね。」と言ってしまい、中谷さんから「えっ、どの部分が?」と言われたときに、その完璧な美しさと瞳のオーラにしどろもどろになった記憶が残っております。光石さんとは、「いい演技をするためにはどうすればいいのでしょうか?」という質問をした記憶がありますが、光石さんから「同時にいろんな作品に出るよりも絞って演技をしたほうがいいんじゃないかな。」というアドバイスを頂きました。あとで分かりましたが光石研さんも北九州市のご出身だったそうで、あのとき知っていればもっと会話が出来たかもしれません。ワンシーンに出演させていただき、しかも打ち上げまで参加することができ、会社を退職して半年も経たない内にこのような経験が出来たことは非常に運が良かったと思います。


『その後の大阪での活動』


 映画「カオス」に出演後、宝映テレビプロダクションのマネージャーには事前に伝えておりましたが、監督の紹介で出演させていただいたことから注目されるようになり、クラス代表の発表会では主役をおこなうようになったり、五日間の特別ゼミでは講師に1970年にテレビ放映された「燃えよ剣」の松尾正武監督が講師を務められそこでも主役をいただき芝居の勉強をしておりました。「燃えよ剣」を観たのはここ近年でしたので、あの素晴らしい時代の素晴らしい作品を撮られた監督のレッスンを受けていたことに、あらためて貴重な経験であったと思うのです。
 
 翌2000年となり、オーディションを受けさせて頂く機会も増え、いろいろと貴重な経験をさせて頂きました。そんななか、ガリバーのCMオーディションで「はい?」という一言だけのセリフでしたが、この役を頂くことが出来ました。あまり宜しくない事かもしれませんが、このオーディション前に、ある自主映画の撮影に出演し、その撮影終了後皆さんと食事をし、断りきれずにグラス一杯だけビールを飲んでから向かったため、普段よりリラックスしていたのかもしれません。

 撮影のため、大阪から制作会社の方と新幹線で東京の調布に向かい、駅近くのビジネスホテルで一泊し、翌日日活撮影所の屋外で撮影となりました。現場ではトレーラハウスのような中で待機し、午後になり竹中直人さんがベンツで颯爽と現れ、しばらく同じ空間で待機。こういう時の場に慣れていないため、ご挨拶することが精一杯の私には撮影にそなえて集中するしか出来ることはありませんでした。

 撮影はスムーズにおこなわれ、「ハイカット!OK!」の瞬間に緊張の糸が解れ、直ぐに竹中さんにお礼のご挨拶をしに駆け寄った記憶が残っています。 その日の夜に大阪に戻り、CMに出てしまったという興奮がなかなか消えなかったように記憶しています。

 この2000年という年は、私にとっても俳優というものを意識する一年でもありました。新地のバーでアルバイトを続けておりましたが、同僚の堅太郎君から、友達が撮影に関わっていて(ガンエフェクト)その監督が映画を撮っているので、紹介してもらえることになり、その監督の事務所兼自宅を訪れ、アクション映画を専門に撮られているT監督を紹介していただくことになりました。

 自主制作映画は、全て自分達でおこなうもので、その製作過程の速さとモチベーションに驚きながら、私も車を横転させるシーンを手伝いにいったりいたしました。撮影も進んでいましたが刑事役に加えていただき、徐々にシーンも増やしていただきました。クランクアップ後TUTAYAでレンタルされることにもあり、森之宮プラネットステーションで行われたインディーズ映画の上映会では、タイミング良く中田監督が大阪に来られるという事で、姉と中田監督とお世話になっているMさんと森之宮駅で待ち合わせをし、近くの寿司屋で食事をし、それから会場へと向かった記憶があります。「リング」「リング2」で大ヒットし、飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍されている中田監督から上映終了後に「孝之君はフォトジェニックですね。」とその瞬間意味がよく分かりませんでしたが、あとから大変光栄なお言葉であったことに深く感動いたしました。帰り際、お忍びで中田監督が来られていた事に気が付かれた関係者の方々は大変驚かれておりました。


『映画 ラストシーンに出演』


 それからしばらくして5月か6月頃に中田監督から電話がありました。確か、「フェルメールの絵画を観るため大阪の美術館に行くので、どこかで待ち合わせして打ち合わせをしましょう。」という内容であったと思います。

 当日になり、新大阪駅構内にある喫茶店で、中田監督と二人でお話をいたしました。
 次回作のお話しで、全編に渡り撮影所内の物語となるため、連日日活撮影所で撮影がおこなわれるということでした。そのため、しばらく東京に宿泊しなければならないことや、私の配役のことなどについてお話ししていただき、あの岡山のバーで感じた、「これは夢ではなかろうか」という思いが再び甦ってきました。

 7月から8月にかけて、巣鴨にあるウィークリーマンションを借り、そこから一ヶ月間調布にある日活撮影所に通い、映画「ラストシーン」という作品に出演いたしました。

 連日の日活撮影所での撮影により、場の雰囲気にも慣れ、さまざまなスタッフの方々と作品を作っていることを実感でき、「本番!」と監督の声がかかるとスタジオの外にあるサイレンが回りそのワンカットの一瞬にかける緊張感はいろいろな分野の技術が凝縮されていることに感動し、この世界へ入りたいという思いは決定的なものとなりました。

 出番の無い日も撮影所に行き、笹野高史さんと大杉漣さんの芝居のやりとりを目の前で拝見し、お二人のお芝居の上手さと面白さに感動いたしました。そのほか、気分転換のため一度行っておきたかった茅ヶ崎に、一人電車に乗って烏帽子岩の見える海岸から柵を乗り越えテトラポットの上に座り、眩い陽射しと波音とともに、開放感のある真夏の雰囲気に一人浸っていました。その後この場所は私にとって特別な場所となり、これまでに三回ほど訪れております。

 私は撮影部のセカンドという役で、主演の麻生久美子さんやジョニー吉永さんのシーンを撮影するという設定でした。ジョニー吉永さんは、同じ福岡県北九州市小倉のご出身で、私の地元門司からも近いところで、誕生日も同じ3月21日であったことに後から知って驚きました。誠に残念ですが、2012年に63歳でお亡くなりになられました。

 同じく主演の西島秀俊さんは、今や知らない人はいない俳優さんですが、自然体で素晴らしい俳優さんでした。大きなお店を貸し切って原宿で打ち上げが行われ、私もその席に参加させていただきました。たしか、「ビンゴゲームの景品を皆さんそれぞれが用意してきてください」とのことで、私は大したものは買っていけませんでしたが、さすがに凄く盛り上がるような景品の数々でした。一人ずつコメントを発表するのでしたが、私は何を喋ったのか、ちゃんと喋れたのか思い出せません。その後二次会はタクシーに乗って割りと近くの小ぢんまりとしたお店で、極々少人数でおこなわれました。私の右隣に主演の西島さんがいらして、何かお話したと思うのですが残念ながら思い出せません。西島さんは、翌日の仕事のため途中で帰られた記憶は今でも残っております。

 クランクアップし、打ち上げも終わり、大阪へ帰るまでの空いた時間に中田監督とともに映画を観に行ったこともありました。たしかチャン・イーモウ監督の「あの子を探して」だったと思います。頭の中では、刻一刻と帰らなければならない時間が迫ってくる寂しさを感じておりました。巣鴨のウィークリーマンションに泊まり、そこから毎朝早朝の山手線で新宿からガラガラの京王線に乗り換え調布駅のバス停四番口から日活撮影所に通っていました。劇中劇でしたので、ほぼ毎日日活撮影所での撮影で、朝から夜まで一日を過ごしていました。昼食時には中田監督が一瀬隆重プロデューサーをご紹介してくださり、簡単なご挨拶しか出来なかったように記憶しています。私にとっては、これこそ映画のような日々を送らせて頂きました。映画を観終わった後、最後に中田監督と握手してお別れになった記憶は今でも残っております。

  
『あの場所に帰りたい』


 そんな東京での生活を終え、大阪に帰った時の現実に戻った喪失感はこれまでに経験の無いものでした。養成所でのレッスンも、映画の現場や、第一線で活躍されている俳優さんと同じ空間に長く居たことで、「これじゃあいけない。基礎は必要であるが、レッスンのためのレッスンをしても現場では全然違う。」ということを痛感し、新地での深夜のアルバイトも身が入らず、あの巣鴨のウィークリーマンションから毎朝山手線に乗って、京王線に乗り換えて、調布で降り、四番口からバスに乗って日活撮影所に日が暮れるまで居たあの景色が恋しくて、広島のときと同じく、「ここに居てはいけない、すぐに東京に行こう!」と思い立ち、夜行バスで池袋に着き、そこから目に入った不動産屋に入り、大阪の家賃が42.500円だったので、50.000円以内で住めるところを聞いてみたものの、「風呂なしでなければ都内ではありませんよ」と言われ、東京の家賃の高さに驚き、けっきょく都心部に30分で通える郊外で探してもらったところ、埼玉県の所沢になり、家賃54.000円のスカイハイツ202号室に決めることになりました。

 宝映テレビプロダクションを退所し、アルバイトを辞め、大阪に戻った三ヶ月後の2000年11月に所沢へと引っ越しました。濃密な大阪での生活でしたが、振り返るとたったの一年八ヶ月しか住んでなく、最低でも三年は住んでいたかのような思い出の深さです。広島で六年勤めた会社を辞め、大阪に行き、五ヶ月後に映画に出演し、翌年にはCMとレンタル化された自主制作映画の出演、そして再び中田監督の映画に出演し、その年の11月に所沢へ引越し・・・・・・なんだか目まぐるしく人生の流れが変わってきたことを当時は感じておりました。

 
『東京での苦悩』


 上京してからは、まず所属する事務所を探さなくてはなりませんでした。中田監督の紹介で「ザズウ」という事務所の松野恵美子社長と下北沢駅のすぐ脇に当時はあったドトールでお会いし、「まずは事務所預かり」という有り難いお話しを頂きました。その後すぐに現場の仕事が入り、順調に思われた東京での(住んでいるところは所沢ですが)スタートとなりましたが、私も若かったのかこの世界の経験が浅かったこともあり、預かりではなく所属したいと言う気持ちが抑えきれなくなり、数ヶ月経ったある日、電話で松野社長に「辞めさせて下さい」と、仁義の厳しいこの世界で誤ったことを私はしてしまいました。

 中田監督を裏切った形にもなり、当初は私はそんな事も分からないほど無我夢中だったのかもしれません。ですが、中田監督からはフルーツ・チャン監督の「リトルチュン」を観に誘っていただいたり、次の新作「仄暗い水の底から」では、現場に「見学にいらっしゃい!」と仰っていただき、懐かしい日活撮影所に見学に行きました。セットが入り組んでおり、その中からトレードマークとなっているタオルを頭に巻いた監督を探してご挨拶をいたしました。

 休憩時間に、椅子に座って談笑されている主演の黒木瞳さんを紹介され、監督が黒木さんに「俳優の金山孝之君です」と仰ってくださった時には、「あぁ、僕は俳優なのか・・・・・・」と不思議な気持ちになりましたが、まことに有り難い経験をここでもさせていただきました。

 そんなある日、喫茶店で中田監督の知り合いであるピンク映画の監督さんを紹介していただく機会がありました。中田監督自身も日活ロマンポルノで助監督時代を修行されていた方ですので、中田監督とともにその監督さんとお会いしたのを覚えております。残念ながらお名前は失念してしまいましたが、その監督さんから、「ピンク映画でも出演出来ますか?」というような事を聞かれ、私もその場では断ることが出来ず「ハイ。」とお答えしたのですが、数日後中田監督に電話で「申し訳ありません、先日の件ですがやはり・・・・・・」とお断りの連絡を入れ、私もお世話になり続けた中田監督を裏切るような事を続けてしまい申し訳ない気持ちで、次第に私の方から連絡をすることが出来なくなりました。

 その後、中田監督はハリウッドに拠点を移され、「ザ・リング2」などのヒットもあり益々遠い存在に感じられ、今となっては私自身、自分から身を引いてしまったように思います。中田秀夫監督からはまるで夢のような経験をたくさん頂きました。またいつかお会いする機会がありましたら、その時はお詫びと感謝の言葉以外見つかりません。いつまでもお元気で素晴らしい映画を撮り続けていかれることを祈っております。

 それからは、またゼロからのスタートとなり、誰一人頼れる人のいない状況で、まずは事務所に入ることからスタートいたしました。武蔵小山にある、撮影用のペットなども取り扱っている事務所でしたが、そこで週一回のレッスンを受けながらマネージャーと制作会社などを回って宣材資料を置かせていただいたりご挨拶させていただいたり、私としては、これまでに経験したことの無い役を貰うまでの道程のスタートに立った気がいたしました。ですから、いかに今までが信じられないほど恵まれていたのかが、東京に来て嫌と言うほどその道程の険しさを痛感させられました。

 
『モデルの経験』


 所沢での生活は三年続きましたが、落ち着いた日々の風景と日常に、何のために上京してきたのかを見失うのではないかと言う不安に駆られ、2004年7月に現在の世田谷区に引越しいたしました。

 俳優としての場が見つからず、知り合いの紹介で舞台や自主制作映画に出たりしながら、演じる感覚を忘れないようにしていました。もちろん演じることが好きでしたので、少ないツテを頼りに演じられる場所を探していました。そのため、以前オーディションの際にお世話になった、大阪にある「参人狂座」という劇団の山口計子さんを紹介していただき、自腹で深夜の高速バスに乗って、大阪でお世話になっていた自主映画監督Tさんの自宅兼事務所に寝泊りさせていただきながら、大阪で舞台に出るための稽古に東京から毎週通っていました。大阪弁の台詞をレコーダーに録音してくださり、それを聞いて大阪弁のイントネーションを勉強していました。

 少し時間を戻して、所沢に引っ越して間もない頃、所沢駅駅前にあるプロペ通り商店街に「FACEDECO」という美容室があり、初めて入ったそのお店のオーナーである関口雄二さんを指名して髪を切っていただい際に、「今度撮影があるので、よかったらどうですか?」とお声を掛けてくださり、近くの航空公園で、お店のスタッフの方や女性のモデルの方々とともにワイワイと賑やかに撮影がおこなわれました。数日後、その本を見てビックリ、なんと私が表紙になっており続いて次の撮影のお話もいただき、今度はあらかじめ表紙になることを告げられ、代々木にあるスタジオでプロのカメラマンによる撮影がおこなわれました。

 そうした経験から、知人がマンダムのモデル募集を見つけ試しに応募してみたところ合格となり、二年半の契約で、その間雑誌に掲載される商品のモデルや、全国のドラッグストアやコンビニでのポップ写真に掲載されるという経験もいたしました。

 この二年半の中で雑誌の撮影は何度もおこなわれ、髪を切って頂くのはACQUAというお店で当時は原宿店もあり、南青山店と、それぞれのお店で何度かカットモデルも経験させていただきました。そのご縁があって今でも表参道店でお世話になっております。

 そのマンダムのモデルでお世話になったデザイナーの角井さんご夫妻が主宰するオペラ公演に二度合唱として参加いたしました。一度目は「カルメン」二度目は幾つかの題材を合わせたオペレッタでした。それぞれの作品名は失念してしまいましたが、ナビゲーター役のダリオ・ポニッスィさんと共演させていただく幸運にも恵まれました。

 そのオペラの舞台で素晴らしい衣装を担当されたスタイリストの先生のアトリエでおこなわれるパーティーに、角井さんご夫婦とともに合唱の練習後、目黒にあるアトリエに伺いました。

 すでに立食パーティーで盛り上がっており、私もビールやワインを頂きながらいろいろな方との交流の場に参加させて頂きました。その中で写真家の山田昭順さんとお会いし、後日、南青山骨董通りにある「フロムハンドメイクアップアカデミー」に伺い、小林照子先生をご紹介してくださり、「からだ化粧」という芸術作品に何度かモデルとして参加させていただくことになりました。小林照子先生に描いて頂いた作品は「森羅」というアルバムに収録されました。山田さんの作品にもモデルとして何度かお声を掛けてくださり、この時期の私はモデルとして活動しておりました。

 
『付き人時代』


 大阪でお世話になっていたT監督の紹介で、漫画原作者、プロデューサー、演出家、映画監督などマルチな才能を持たれたKさんという方を紹介してくださり、撮影現場に同行させていただいたり、事務所での買い出しや料理、諸々の仕事の現場や打ち合わせの席に呼んで下さいました。そのKさんのお陰でウルトラマン関係の作品や、舞台に何度か出させていただくことが出来ました。

 とくに印象に残っておりますのは、前職を引退され舞台活動やテレビなどでのタレント活動にシフトされた及川奈央さんと、仮面ライダー555などで注目されていた唐橋充さんとともに三人で全国十四ヶ所、公演順に新潟、郡山、石巻、仙台、長野、名古屋、神戸、東京、浜松、岡山、大阪、熊本、福岡、広島のライブハウスでお芝居をおこなったことです。

 現地入りして、舞台を確認して、軽くリハをおこない、本番一回という強行スケジュールでしたが、度胸と実力は短期間で身に付くものでした。お芝居が一時間弱位だったかと思いますが、その後にトークショーがあり、私が人生初の司会者として、及川さんからお話を引き出さなければならないのですが、司会者である筈の私が及川さんにリードされ、どちらが司会者だか分からず、それはそれでウケていたように記憶しております。唯一司会者らしくリードできたのは、福岡公演の時ぐらいだったかもしれません。あの時は、目の前に、身内や友人達がおりましたので、私もリラックスしていつも通りに話せたのかもしれません。

 全十四公演、移動中もずっと一緒だった及川さんに唐橋さんに及川さんのマネージャーのMさん、笑いっぱなしで本当に楽しく良い思い出になりました。熊本公演では、現地入りして乗ったタクシーのNさんという方が優しい方で、みんなで温泉に行こうと、Nさんの案内で露天風呂のある温泉の湯に浸かった思い出があります。湯から上がり食事を終えて、再びNさんが差し入れのみかんを持ってきて迎えに来て下さり、感動的なことに、メーターを止めたままのんびりとみんなで熊本城など幾つか観光案内をして下さいました。2007年の11月から12月に掛けてのツアーでした。

 いろいろとピンチな出来事もあった中身の濃い公演が終わり、あらためて、芸能というその世界の先輩方の凄さを垣間見る瞬間と、昔からの友達同士のような仲のよさに、プロデューサーであり演出家のKさんからは「仲が良すぎる」と羨まれるほど無事に成功させることができました。その後、舞台公演では何度か及川さんからお花を頂いたり、唐橋さんからは洋服や自転車を頂いたりなど、今思えば本当にそんな時代があったのかと信じられないような気持ちになります。

 そのほか、Kさんとともに出版社の記念パーティーや、芸能事務所の新年会や忘年会に参加させていただいたり、当時表参道ヒルズの裏に事務所がありましたので、そこでいろいろな俳優さんやタレントさん、ときには超大手出版グループの社長さんをお招きしての鍋パーティーをおこない、当時の私はもっぱらよく鍋料理を作ったものでした。 

 Kさんの盟友ともいえる俳優の小田井涼平さんとも親しくさせていただき、何度か舞台やテレビの作品などに出演させていただく機会もありました。涼平さんと言えば「仮面ライダー龍騎」でデビューされ、舞台では熱烈なファンの多い多彩な才能をお持ちの俳優さんでした。涼平さんと親しくさせていただいたそのお陰もあり、私などでも舞台をおこなうと少しずつ差し入れや、外に出た時にいわゆる出待ちをされることも経験いたしました。

 そんなある日、以前チケットを買って下さった渋谷のバーのマスターから連絡があり、公演後にある女優さんを私が仲介に入ってKさんに紹介して頂きたいという旨のことでしたので、Kさんにお伺いしたところ、シアターV赤坂の舞台が終わった後に近くのお店でお会いしましょうということになりました。

 
『解雇』


 それからしばらくして、その女優のMさん、舞台で準主役を演じられたD君とともに、Kさんの付き人をしながらこの三人でお芝居をおこなうようなユニット的チームとして活動をおこなうようになりました。

 このあたりから、どういう訳かKさんの私に対する当たりが強くなり、これまでのようなKさんとの関係が少しずつ変わり始めてきました。今にして思い返せば、私のような真っ直ぐ正面から勝負していくことしか知らない者にとって、私の知らないところである事無い事が大きく誇張され、神田にあるイゾルデというカフェで2008年3月に一人芝居をおこない、打ち上げも盛り上がり、人生初の、自分で脚本を書き、一人で三十分演じることを経験し、次に向けての意欲と達成感を感じておりました。しかしその翌朝に、突然メールで解雇通告を受けました。「理由は金山君が一番分かっていると思います。」という一文でしたが、私には何やらサッパリで、あまりのタイミングに人生でこれ以上無い程のショックを受けました。しかしながらKさんにはこれまでお世話になった感謝の気持ちしかありませんでしたので、これまでの思い出と感謝の言葉を連絡し、問い直すようなことは一切おこないませんでした。

 その後の私は、誰とも連絡を取らず、何がどうなっているのかサッパリわからず、ただ、これまでのギャラが入って来なくなったため、朝から夜遅くまで毎日アルバイトに入るしか自分を保てませんでした。ボーっとしたまま気づかず赤信号の片側二車線道路を渡っていて、車のクラクションでハッとなったときには、「このままでは危ない」と思いましたし、勝手に涙がこぼれる時もありました。

 それから約一ヵ月後に、渋谷のバーのマスターから連絡が入り、とある事情で私が事実無根の解雇であったことが関係者の間で分かり、Kさんの信頼が失われ、私は一転皆から同情される立場となりました。ですが、私にしてみればその辺りのことは良くわからず、これまでお世話になっていたKさんと過ごした時間を考えると信じられない思いがあり、一体何がどうなっているのか分かりませんでした。しかし、今になって思い返しますとやはり私には合わない環境も多く精神的にも疲弊していたと思いますし、「そりゃそうだろうなぁ・・・・・・」と今は思えます。

 
『武術との出会い』


 そうしたことがあり、もうこういう世界は懲り懲りになっていたところ、気分転換のため渋谷のバーのマスターが主宰する西郷山公園でのお花見に参加しました。すると突然背後から私の事を待っていた人から「君が、金山君か?」と声を掛けられ、その年2009年の4月26日に武術の道へと足を踏み入れるのでした。

 当時は、これまでにない殺陣を表現できる技を身につけた俳優を生み出すために、私に白羽の矢が立ったのだと思います。私といたしましては、またしてもゼロからのスタートとなりましたので、これまでと全く違った環境で無ければ、生きていける気がいたしませんでした。初めて経験する杖術や剣術や抜刀術の全てに惹かれてしまい、これまでの出来事が霞むような衝撃を受け、毎日稽古の事、技の事が頭から離れず、気がつけば役者としての日々の意識を忘れ、型稽古の手順や体の使い方ばかりを考えてしまうようになりました。

 それから八ヶ月後の12月に師範とともに、ポルトガルに十日間、稽古と撮影のために行って来ました。(このときの内容は、このブログのカテゴリにある「武術稽古の旅」に連載として詳細を掲載しております)


『今となってはすべてが感謝』


 こうして振り返ってみますと、人との繋がりは人生そのものであり、どういう人と出会うかは自分がどうであるかということに関係していると思います。俳優としてのスタートは最高の形で始まりましたが、私の成長がそれにまだ追いついていなかったのかもしれません。中田監督との思い出は、全てが美しく輝くものとして私の中に大事に残っております。そこに私の人生の目標が見つかり、その居場所、そこから見えた景色に憧れ、人生の情熱を掛け続けられるものとして十分でした。

 ですが、もう一つ学んだことは、同じように見える居場所でも、景色は全く違うものも多くあるということです。お世話になり感謝している人でも、何かによりこれまでの信頼関係が崩されてしまうことも経験いたしました。弱肉強食の世界だとは思いますが、私には不向きであることも悟りました。

 今、私がこうして発表することが出来たのは、これまで以上に人生に情熱を捧げられるものを手に入れ、蹴落とされるような悪意からは掛け離れた環境で、ご縁のある方々とともに、いい景色を観ていける日々を歩くことが出来るようになったからです。これまでの経験が無ければ今の私は無く、今の環境がありがたいものであるからこそ、これまでの過去に感謝が出来ますし、それで良かったのだと心から思えるのです。

 自分の生き方、なんのために東京に来たのか、一度折れかけた心が武術との出会いによって救われました。人生は良い事も良くない事もいつ何が起こるかわかりません、それらをたくさん経験してきました。おそらくこれからの人生におきましても、そうしたことは幾度と無く訪れるでしょう。ですが、そのときは苦しくても、時が経てば救われるものです。時間は偉大です。こうして過去を文章に起こしますと、やはり精神的に疲れてしまいます。この記録を境に、過去が浄化され、今の今を見て生きていける日々にまた明日から戻っていきたいと思います。

 長文となりましたことをお詫び申し上げます。


2017-07-07(Fri)
 
プロフィール

金山孝之


     金山 孝之
  Takayuki Kanayama


松聲館 剣術技法研究員

金山剣術稽古会主宰

Gold Castle
殺陣&剣術スクール主宰

高齢者のための剣術教室
クラーチ剣術教室講師


――――――――――――――

1975年生まれ
福岡県 北九州市出身
東京都 世田谷区在住

1999年
映画監督中田秀夫氏との出会いにより俳優デビュー。他分野では、マンダムのモデルや舞台のプロデュース公演などの活動をおこなってきた。

2006年
小林照子先生とのご縁から  『 からだ化粧 』のモデルを務める。

2009年
武術の道を志しそれまでの活動を一新し武術稽古と研究に励む。

2011年
武術研究家甲野善紀先生に師事し身体の使い方を研究しながら、『 抜刀術 』『 剣術 』『 杖術 』『 体術 』などの稽古と研究に取り組んでいる。また、先生の書籍、番組撮影、記録映像、その他演武等における打太刀や受けを務めている。

2013年
刀と身体操作の技術向上を目指し裾野を広げるべく
『 Gold Castle 殺陣&剣術スクール 』を立ち上げる。

2014年
甲野善紀先生より
『 松聲館 剣術技法研究員 』という名称を頂き、自身の経験を活かした指導法を各道場等でおこなっている。
 
高齢者向け住宅にて
『 高齢者のための剣術教室 』をおこなっている。

日信工業株式会社の製品『 SAMURAI BRAKE 』のプロモーション活動をおこなっている

2015年
『 金山剣術稽古会 』を立ち上げ、現代における武術稽古の必要性を、身体と心で学べる場として活動している。

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